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蛙のスタンス 4

 「蛙は『部落解放同盟とは組織の成員の利益代表団体である』というが、ならば『部落とは何であるか』という問いに答えなければなるまい」ということになるのではないでしょうか。
 まるで「人ごと」みたいな言い方ですが、実はこれはたいへんな難題なのですね。
 だれもきちんと答えてはいないと思います。
 吉田向学さんは、山口県を中心に周辺の「部落」について重要な分析をなされていて、学ぶべきことは多いのですが、私たちの地域・神戸や、比較的「蛙がよく知っている」京都や大阪の状況とは大きな乖離があると思います。

 で、蛙は、向学さんとはまるで違ったことを考えているのです。

 江戸時代、勿論、私たちの地域は「部落」という言葉では呼ばれなかったのですが、敢えてそのように呼んで言えば、向学さんの言うように「部落」は、当時の「司法・警察機構」の役割を果たしていたし、「武具」や「生活用品」としての「皮革」「竹細工」などなど、もろもろの生産者でもありました。そこでは「明治」以降に形作られたような「賤視」などは無かったわけで、「部落」の側にも、「自分たちはその専門的な仕事を通じて世の中を支えているのだ」といった「自負」もあったのだと思います。それだから、私たちは自らの出自を卑下する必要など何もなかった。
 「明治」以降の被差別の歴史の中で、私たち「部落」の民は「差別者のまなざし」をあたかも「自身のもの」であるかのように内面化させられてきたのだと思います。

 この「まなざし」について少しく解説をつけておく必要があります。
 私たちは「外界」を見る時、例えば「山」や「海」、「イヌ」「ネコ」或いは「リンゴ」とか「ミカン」とか、それらを見る時、ただ、ぼんやりと見ていると、その「まなざし」が、実は自分が生きてきた時間の中で、そのものをそのように「感得」する能力として「社会」から「受け取ってきたのだ」ということに気づきません。
 それらのものは「主体」から独立して存在をしていますが、それらにそのような「名前」を付け、そのようなものとして「認識」し、人間同士で「言葉」のやり取りがされていきます。
 ところで、人間は、その大脳皮質の発達を通じて、他の動物にはない能力、自己自身を対象化することができるという能力を得ました。自分自身が「他者の目」から見て「どう見えるか」ということを意識化することができるようになったのです。

 「山」や「海」や「イヌ」や「ネコ」を眺めているようにぼんやりと「自分」を見ていると、その「見方」の方法や、「見る主体」の価値観が「社会の多数派」に倣うことになってしまいます。

 ここでは「認識論」ということがとても重要になるのです。

 ヘーゲルは「自由とは必然性の洞察である」と言っているようです。
 地球の引力の拘束から自由を得るには秒速11キロの初速を持って飛び出していけばよい。宇宙空間を自由に飛翔するとはそういうことだというわけです。
 自由とは「恣意」とは違って、ものごとの「法則性」を正しく認識し、それを超えていくところに生まれるものなのです。

 私たち、部落の民は、「多数派」或いは「差別者」の「まなざしを」ではなく、「自由な人間の『まなざし』を」取り戻すことによって、自らを解放していくことになるのだと、蛙は思います。

 「部落」或いは「部落民」とは、過去の歴史を口実にする「差別者」の「呼び習わし」意外に何の根拠をも持たない。
 既に「過去の歴史」は現実の「部落」では解体していて、ただ、そう呼ばれることだけ(差別されることだけ)で存続しているに過ぎないのだと蛙は考えています。
 そういう意味で「他称語」だというのです。

 ただ、「差別の現実」があるのですから、自らそれに抗していく「生き方」を選び取った人々は「部落解放同盟」に結集すべきなのです。

 「わしゃ、差別されたこともないし、そんな時代遅れな話は知らんがな」と考える人は、自ら「部落」を名のる必要性はありません。
 けれども、そういう人々にも蛙は、「困ったことがあれば何時でも蛙ンちに相談にきてね」って言うだけですね。

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