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「猫」

_ 「吾輩は猫である」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html)ではないけれど、この頃、ウチの軒下に住みついた二匹の猫には、まだ「名前」が無い。

 もともとぼくはペットというものを「飼うということ」が「人間」の「傲岸不遜さ」を示しているような気がして、一切気に入らないというところがあった。
 まぁ「家族」ということもあるわけで、ぼくの「主張」を是非とも押し通すということも思わないから、子どもたちの希望を入れて、15、6年ばかり「レオ」という名前の犬と一緒に暮らしていた。
 成る程「犬」は人類の歴史と共に「側にある特別な存在」と言われる由縁とはかくの如きものかと納得させられたものである。
 それでも「老衰」の果てに「見送る」ということにあいなって、やはり「二度とペットは飼うまい」と思ったりもした。 
 「ペット」とはいうけれども、一緒に暮らせばもはや「家族の一員」ということになるのだし、それに絶対にというわけでもないが、大抵、ぼくより先に逝ってしまうということになるから、ちょっと辛い。

 息子が南河内の方の大学生をやっていた頃、迷い猫を世話していたらしく、卒業と同時にこれを連れ帰った。
 名前が何とも凄いもので「怪傑豪傑」という。
 通称「カイ君」である。
 もう既にこうして一匹おるところに、これ以上増えてもかなわない。
 そう思っていたのだが....

ぼくの「大邸宅」は三百坪ばかりの公園の中にあって、ここには「野良犬」や「野良猫」が数匹いるようなのだが、去年の6月頃、小さな猫が捨てられてあった。
 ツレアイが哀れに思ったのか、ちょいちょい餌を与えていたら、とうとう我が家の縁の下とか軒下を住処(すみか)にしてしまった。
 牡猫である。
 今では3キロをゆうに超えているだろう。
 そしたら、またまたちっちゃいのがやって来た。
 これがまた毛並みなど相当綺麗な牝猫である。
 実にかわいい。
 赤ちゃんのまま捨てられるなんて何とも酷い話だ。

 というわけで「二人」で仲良く「共同生活」を始めてしまった。
 チビの方はまだ「乳離れ」もしていなくて、どういうわけか先に来た牡猫のおっぱいをずっと吸っている。牡猫のくせして感心なことに「母親」を演じているようで、チビをせっせと世話している。

 このままでは「猫屋敷」になってしまってもかなわないなぁ等、思っていたら、いつもお世話になっている獣医さんの紹介で「貰われていく」ことになった。
 大きい方は、顔は「イケメン」からは程遠いが気性のやさしい「よい仔」なのだが、チビの方ときたら、一切人を寄せ付けないところがあって、「綺麗な猫」ではあるが「癇の強い仔」だったから、「貰われていった先」で慣れることができるだろうかと心配だった。 案の定、三日も餌を食べず固まった儘だったらしいし「血尿」まで出たという。
 難しいものだ。
 行った先で幸せになってくれれば等思っていたのに....

 で、この「出戻り」のチビは、もとの「共同生活」に戻ってやっと安心したというような顔をして、軒下にいる。
 
 まだまだ「赤ちゃん」から抜け切れていない癖に、この激しい気性には驚かされた。死んでも「厭なものは厭ッ!」っていうんだからねぇ。 

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酔っぱらいの寝言

 自分では「活動家」なんだなんておこがましくも思ってたりしますが、その割には十分なことはできていないですね。
 「十分なこと」というのは多分、どれくらい「人々」の役に立つ仕事ができているかということなのだと思っていますが。
 きちんと給料を稼いでいて、その上で「何か」をしようというのですから、いささか「高望み」な話なのだろうとも思っています。

 自分で「納得ッ!」。

 「酒」と「本」がありゃぁ後はなーも要らない蛙めではあります。
 多分、幸せなんでありましょう。

 本の読み方ですが、平行して五、六冊くらい一遍に読む癖(この癖は娘にも遺伝しているらしい)があって、遠山啓さんの「数学の本」は30年くらい「読み終わらない」し、後から後から「読みたい本」が出てきて大層困ります。

 「古本屋廻り」というのも「趣味」の一つでありまして、当世、随分と本の値段も高いものになりましたから、これは重宝しています。
 絶版になった杉浦明平さんの本を見つけたり、サラ・パレツキーの「ハードタイム」なんかを見つけたりした時は、思わず「万歳ッ!」なんて叫んでたり....
 池波正太郎の「剣客商売」など、文庫本で20冊くらいになりますが、これも皆「古本屋」で一冊150円くらいで揃えましたね。

 今は「日本仏教」の流れを俯瞰するようなのと「般若心経講話」、「ファイナンス理論」と「金融立国試論」など読んでます。

 何、考えとんじゃッってなもんですけど。

 今日の朝日新聞に柳澤桂子さんの文章がありましたが、彼女の本も4、5冊は読んでいます。たいへん勉強になりました。ここいらへんは最近の「生物学」最前線ということになります。

 最近、身近なところで「自殺」が2件ばかりありまして、死んだ人間とは少し話したことがあるという程度だったのですが、「心に届くような付き合い方」ができなかったことを悔やむ想いもあります。

 人生とは難しいものですね。

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「部落史」の視点 9

 以前、山下力さんが朝日新聞に投稿をされたことがありましたが、それを読んで、たくさんあった疑問点の一つに、「同和対策事業に15兆もの資金が投ぜられ、30年もの長きにわたって施策が実施をされてきてなお、同盟中央本部は『依然として根強くある差別』などというが、それでは一体、何をしてきたということになるのか」という風な「噛みつき方」をされた点です。
 この主張は、山下さんに限らず、比較的、運動に理解があるような人々からもよく言われることであります。

 前稿でも触れたように「15兆」は「差別解消」には十分に役立たなかったのですが、金額を言うだけでは悪し様な「解同攻撃」と変わることがありません。それがどのように使われたか、どの程度「役に立ったか」若しくは「立たなかったか」が、また、それは「何故か」ということが丁寧に分析されて初めて「金額の多寡」を問題にすることができるのに「朝日・山下文書」はその点にこれっぽっちも触れようとしないのです。

 「同対審答申」「特措法」の前後で、解放同盟の組織の伸張は著しいものであったと思います。
 「個人給付事業」(例えば『奨学金』『就職支援』etc.etc.)や「住宅取得」の要件として、「同盟員」であることが求めらることが多かったのですから、当然の成り行きでした。
 これは、共産党から「窓口一本化反対」の主張がなされて、後退をすることになります。
 「同盟員でなければ『施策』の受給資格がない。」というのは、この国の「法制度上」確かに間違ってはいるでしょう。けれども、本来は「差別解消を目指す自覚的な取り組み」についてしっかり理解を求めることを「施策」を受け入れることの条件にすることが大切ではあったのです。
 この辺りのことが「グチャグチャ」になったまま、事態は進んでいきました。

 この時期の「同盟」の員数拡大はまさしく「バブル」と呼んでよい。

 私は、30数年前、原則が貫かれるように運動を進めたのでしたが、ウチの地域の共産党の「進め方」は、「施策は、これまで差別を受けてきたことに対する『補償』なんだし、『得』になるよ」という風なものでした。そのように言って「赤旗」の購読拡大や選挙での「集票」に利用したのです。
 量的には、私は負けたのでしたが、僅かとはいえ、「良質な運動」の種を残すことはできたと思います。

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「部落史」の視点 8

 1965年「同対審答申」1969年「同和対策特別措置法」施行については、その重要性をどれほど強調してもし過ぎると言うことはないのですが、その意味ということになると、様々な角度から、考え直さなければならないことがあるように思われます。

 私自身は、これを準備する「国策樹立国民大行動」を含めて、これらのことについては一切、関わりが無かったわけで、「当事者性」に欠け、「評価」と言っても「後知恵」に過ぎないと言うことになります。

 それにしても凄まじい「変化」でありました。
 半世紀前のことを記憶する世代には、「被差別部落」の変容は想像を絶するものであったのです。
 勿論、「一千を超える『同和対策事業』未実施・未指定」の問題もあります。
 また、私たちのような「都市部落」の劇的な変わりように比較すれば、郡部など、さほどのこともなかったということもあるかも知れません。
 私自身は神戸のことをよく知っているという程度ですから、大阪や京都、福岡、広島等々にあった「大規模な『都市部落』」の実際は想像するだけでしかありませんし、「少数点在」と言われる所についても分かっているわけではありませんが。

 「答申」は「劣悪な住環境や教育と就職の機会均等が十分には保障されてこなかったことからする差別の再生産という悪循環」について言及をしておりました。

 子どもだった私などは、そこに暮らし、周りの暖かな人々に護られてする自由でのびやかな生活を屈託無く過ごしていましたから、「違和感」もあります。
 「貧しいこと」や「ボロみたいな長屋で暮らしていること」が、それだからと言って、「差別されるべき理由になるはずは無い」とも思います。
 けれども、そこに暮らし、惨憺たる人生を歩んできた「親の世代の苦悩」を知らずにいた「子どもらしい想い」なのかも知れません。
 「差別の故に強いられた貧しさや苦労」は是非とも克服されるべきであったでしょう。

 1970年頃から本格的な「同対事業」が実施されていったと思います。

 重要だったのは何と言っても「住宅」だったでしょう。
 この外、道路・橋梁・街区・上下水道(雨水処理を含め)・電気・ガス等々のインフラの整備がなされていきました。

 (この稿、書き始めて既に数日を経ていますが、思うことがあまりに多すぎて、なかなかまとまりません。何本かに分けて、ということにします。)

 「同和対策事業」に投じられた予算規模は、14兆とも15兆とも言われます。
 それが多すぎたのか少なすぎたのか。

 例えば「阪神大震災」に関わる「復興予算」について考えてみるに、20兆まではいかなかったようですが、おおよそ「規模」は似たようなものだったと思います。
 内容をいえば、「被災住民」に直接届いたのは、その1割にも満たないものだったし、ここでも、「道路・鉄道・電話等通信関連・電気・ガス・上下水道」のライフライン、そして「企業活動再建」に大方が使われたのでした。
 投じられた「税金」は全て、ゼネコンや大企業の利益に吸い上げられたのだし、この国の政府の「向いている方向」はそのようなものだったのです。

 「同和予算」の使われ方について、丁寧な分析を見たことはありませんが、おおよそ変わることはありませんでした。

 共産党の「解放同盟攻撃」の論法の「軸」として、「困窮者は多くあるのに独り『部落』だけが優遇されるのはおかしい」ということがありました。
 14兆、15兆などという数字を見れば、誰もが「目を回す」ようなものでしょう。
 それがあたかも「部落」とそこに暮らす人々に直接手渡されたかのような「言い回し」がされました。
 「実際」を見てきた者には明らかなことですが、それらは本来、行政がなすべき「インフラ整備事業」であったものを、「同和予算」を名目にされただけのことでした。
 恩恵を受けたのは「被差別部落」であるよりは、その周辺の住民と、何よりも「潤沢に資金運用が図れた」地方行政だったし、そこから利益を稼いだのは、ちょうど「高度成長」期と重なってする「大企業・ゼネコン」であったのです。

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