鰯の頭も...
「鰯の頭も信心から」という台詞があって、この国では、ハナから宗教が馬鹿にされている雰囲気があるようだ。
一神教の国々の人からは、「理解不能」な「国民性」であるとも言われている。
そのくせ「苦しい時の神頼み」という話もある。
まぁ、実に、いんちきな「国」だ。
多分、この「国」では、人々に「自分」というものがなく、「寄らば大樹の陰」ということで、いつも「権力」に寄りかかっていく生き方がベストだと考えられているからだろう。
「判断の基準」を他者に預けてしまう「生き方」は、実にラクチンなものではある。
自分では何も考える必要がないからだ。
この場合「権力」とは、「第一」に「国家権力」であるが、「自分は『反自民』だし、『反戦平和』の運動にも参加しているのだから、『国家権力にもたれかかっている』などと言われる筋合いはない」などと言う人は多い。
「主観的」には正しいのだが、「信心」からさほど遠い距離にはない。
例えば、「戸籍」に登録がされており、「源泉徴収」などといういかがわしい「制度」を通して「納税の義務」を果たしていて、そのことに何の疑問も感じていないとすれば、十分に「国家権力」にもたれかかっているといえる。
ただ、この場合、積極的にこれを拒否しようとすれば、この社会からドロップアウトせざるを得ない。
「『存在』の根拠を自分自身の内以外に持たない」という生き方は実に困難なのである。
「権力」について第二、第三・・・という風に数え上げていくことができる。
例えば「会社」、例えば「政治組織」、「市民団体」、それらしい「宗教団体およびその教義」、「解放同盟」もその内にあげておこう、etc.etc.
「第一」「第二」「第三」というのは、仮にそう呼んだだけで、何も上下とか並列とか、順序よく並んでいるわけではなく、個人の意識の中に複雑に入り組んで「一体的」に構造化されているものだ。
「『存在』の根拠を自分自身の内以外に持たない」ということでなければ、全て「宗教的」と呼んで差し支えないと思う。
つぶさに検討してみると、そこではそこなりの「儀式」が執り行われているから、そこいらへんを眺めてみると、「成る程、宗教だよねぇ」と納得がいくはずだ。
「シンボル」も重要な役割を果たす。
「国家」は「日の丸」を必要とし、「宗教」は「偶像」を、会社は「社旗・社章・社是」、「市民団体」は「市民憲章」など、同盟なら「荊冠旗とゼッケン」etc.etc.
全てが否定されるべきだと言っているのではない。
こういうことをしっかり意識していることが大切なのだということであり、他者がそのことに気付くように働きかけるべきだということなのだ。
「鰯の頭を信心する人」が仮にいたとして、馬鹿にされるべきではなく、それなりに「大切」につきあうべきだろうと思う。
もし、それが駄目だと言いたいのなら、「どのように生きるべきか」を自身の行為を通して、目に見える形で指し示すべきなのだ。
問題はそのようにたてられなければならない。
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