生々流転
「人」も「組織」も、全て「存在するもの」は「生々流転」の内にある。
生まれ、成長をし、死んでいく。
ひとときも立ち止まることがない。
この宇宙でさえ、「誕生」の時があり、「死滅」の日があるらしい。
この場合はあまりに長い時間が想定をされているから、とりあえずは「私たちの問題」からはずしておいてよいかも知れない。
「宇宙の終焉」については、以下の通り↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89
紀元前500年の古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言ったし、鴨長明も「方丈記」にそのように記している。
仏教など、東洋思想においてもそれは基本的な考え方であるだろう。
けれども、その考え方について述べた人の名前が記憶されていたり、そのような思想が「思想」として振り返られたりすること自体が、「そのものの力の弱さ」の表現であるとも言える。
そういう考え方が遍(あまね)く人々のおもいの中に浸透しているのであれば、「名」はかえって忘れられ、「思想」も、そのようなものとして成立するはずもないからである。
このあまりに当然な考え方が、「受け入れられていない」のはなぜだろうか。
それは、「現に今ある体制」が「今、現在の支配者」にとっては、永遠に続いていてもらいたいと考えてられているからということに他ならない。
「皇国史観」などはその典型だろう。
「人」は、自らが限りある生命を生きているということを、普段、あまり自覚しない。
「業」と呼ぶことも可能かも知れないが、それは「意図的な支配の側の思惑」にも因っていると、ぼくは思う。
「公教育」の中で、人々はそのように教育・訓練をされている。
「死すべきもの」としてある人間の有り様など、「教えられること」などありはしない。
「自分自身のこと」や「自身が所属する組織」について、徹底して考えてみることは重要なことだと思う。
そうでなければ、ぼくたちは「支配の側の『生きよッ!』という命令」に屈服を強要されることになる。
「自由」などというものは、そんじょそこいらにあるものではない。
自分は「自由に生きている」と考えていても、それは「奴隷の自由」であるかも知れない。
相当な苦闘を通してのみ、それは得られるものなのだと、ぼくは思う。
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