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来年も頑張ろう

 2004年もそろそろ終わりをむかえます。
 たいへんな年でしたね。

 災害と戦争と。それに、社会の「病み方」の反映なのでしょうか、考えられもしない犯罪の連続でした。

 私自身は、所属する組織から「処分」を喰らって、この2年、公的な場所での活動ができませんでしたから、かえって「平穏無事」、なーもせんとボーッとしていただけのような気もします。
 ちょっとした「規律違反」でありまして、それも「不正を糺す行為」だったし、さほど迷惑もかけるようなもので無かったですから、「もっと上手にやる方法がなかったかなぁ」ということは思いますが、「反省」はしていないですねぇ。

 私の場合、所謂「可罰的違法性に欠ける」というやつなんで、「処分」した方が愚かだと思っているぐらいです。

 こういうようなことを言っている、この「性格」が悪いのかしら?

 ということで、喧嘩っぱやい短気な人間ではあります。

 でも、陰でこそこそ悪口をいうよりは、本人にきちんと文句を言うのは健康のためにもいいですね。

 来年はどういうことになりますか、まッ、精一杯、頑張っていこうとは思っています。

 

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「江戸・東京の被差別部落の歴史」

 浦本さんが「江戸・東京の被差別部落の歴史」(明石書店)を上梓されてから一年が経過しましたが、この間、彼にとってはたいへんな一年になりました。

 「あとがき」でも触れられている「想像を絶するような差別事件」の主要なターゲットにされたのでしたが、「犯人」が逮捕され、第一回の公判が24日には開かれたようです。

 この「事件」については考えることも多いのですが、コメントは改めてということにしたいと思います。

 ぼくの青年時代には、仲間の間で一冊の本を輪読するなりしての「読書会」のようなものがありましたが、今は、そのようなことがあるようには聞きません。

 浦本さんは、江戸開闢以来、明治に至る過程で、「被差別の側」の歴史を、史料を読み解きながら、分かりやすい言葉で明解にまとめてくれました。
 彼の仕事は、もっと高く評価されてよいはずです。

 たくさん、考えなければならない問題が提起されています。

 「解放令」と称される「太政官布告」の意味も、この文脈の中で理解されれば、一般に考えられているようなものとは、もっと違った捉え方になると思う。

 浦本さん自身が言っているように「武士や町人を中心に江戸の町を語る」だけでは「全体像」は掴めないはずだ。
 「団左衛門」を軸心に、「江戸から明治へ」を活写した内容は、もっと論議を呼び起こしてよいし、「部落問題」を考える人にとっては必読文献ということになると思う。

 ただ、ぼくの考え方では、注意をしておかなければならないと思うことがある。

 そんな単純な人はいないのかも知れないが、時に「先人の輝かしい闘いの歴史」を祭り上げて、自分たちの「由緒」を過大に評価する傾向を感じないでもない。

 この「時代」には「人権」という概念は無かったのだし、「不当な差別」と闘うという意識とはちょっと違っていたのではないだろうか。
 「差別」は、ここにあげられる「被差別民」だけに限られたことではない。この「時代」の被支配層全てであったはずだ。それが「身分社会」ということだろう。

 それだから、ぼくが考えるに、「彼等の闘い」は、その「社会的・経済的な力」に相応しい「待遇改善」の闘いだったのであり、それ以上でもそれ以下でもなかったのではなかろうか。
 そう言ったからといって、「その英雄的な闘い」の意味を貶めることにはならないと思うのだが....

 

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帚木蓬生「ギャンブル依存症とたたかう」

 「座骨神経痛」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~wellness/wel_home_sciatica.htm
の痛み方が酷くて、集中力欠如というところです。

 ずっと以前のことになりますが、本屋さんで神谷先生とばったりあった折に、「帚木蓬生の『三度の海峡』は面白いよ」ということで、薦められまして、以降、文庫本になってるのはおおかた読みました。
 「逃亡」とか「アフリカの蹄」もよかったですね。
 「好み」ということがありますから、全部が全部「面白い」ということにもなりませんが.....

 今日の話は、新潮選書「ギャンブル依存とたたかう」のことです。
 著者名が「帚木蓬生」でなければ、本屋で手にとってもみなかっただろうと思いますが、これはいい本です。
 ここでは「小説家」としてではなく「精神科医」として、帚木さんは「力一杯」の仕事をされています。
 本年の「11月20日」付けですから、「できたてのほやほや」というところかなぁ。

 ぼく自身は、ほとんど「アルコール依存症」に近いのですが、池田清彦君のいうには「罪悪感をともなっていなければ依存症じゃぁない」らしいし、酔っぱらって人に迷惑をかけるタイプでないと思う。
 知り合いには、酔うと暴力的になるのが複数いて、そのツレアイには「あんた、別れなはれッ!」って言ってるんですけど、なかなかそういうことにはならないようです。

 人間は本質的に「勝負事」が好きなのではないでしょうか。

 ぼくの場合、経験上、「絶対に負ける」という確信があって、ハナから「しない」だけです。
 パチンコも以前は毎日みたいに行っていたこともありましたが、ある時、17年前かなぁ、二日で十万負けて、「やめようッ!」って決心した日がありました。
 ちょうど、「デジタル」が導入された頃ですね。
 それまでは、勝っても負けても「二~三千円」という時代でしたから、暇潰しにはよい娯楽だった。
 麻雀にもはまっていたことがありましたが、「銭への執着心が勝負をきめるんだなぁ」という感慨もあって、負け続けに負けて、やめてしまいました。

 競馬・競輪・競艇、それに札ごと、「ほんびき」
http://www.asahi-net.or.jp/~RP9H-TKHS/dg_tehon.htm
以外は一応、一通りやっています。
 全てに「負けつづけ」。
 闘犬・闘鶏・闘牛などもあるようですが、これらは専門的(?)な博打打ちの仕事でしょう。

 現在、社会的に問題にされるべきは、この国では「パチンコ・パチスロ」ですね。

 帚木さんの本は、「ギャンブル依存症」が「病気」なのだということ、「なおすことは可能なのだ」ということ、特に、そのことで苦しんでいる家族などが取るべき態度について、更には、社会的な広汎な問題意識の昂揚の必要性について述べられています。
 「サラ金・ヤミ金」問題についての考え方や、対処法として「自己破産を含めての法的救済制度」の使い方などなど...

 「週間文春」だったかに「三〇兆円の闇を追う」みたいな表題でパチンコ・パチスロ業界のルポがあったようですが、この国の「腐敗ぶり」は、このあたりの話が真面目に取り上げられないところにもあるのでしょう。

 例えば、簡単な話、「換金」はホントはしてはいけないことになっているんですから、徹底的に取り締まれば、いっぺんにパチンコ・パチスロ業界はぺしゃんこになります。

 そうしないのは、業界と警察・政治家、それに暴力団などの絡みが裏側に隠されているからにほかなりません。

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蛙の「差別」論 3

 網野さんが「この国の西と東」について書かれてきたことを、色々と考えてきたのですが、あまりよく分かってはいません。
 本腰を入れて格闘しないといけないのでしょうが、生来のなまけものの蛙は、漠然としたとらえ方ですましてきています。

 縄文から弥生への変遷以降、現在に至るまで、構造として「この国」の有り様をしっかり考えていかなければならないのでしょう。

 「東日本」には「被差別部落」の数は相当少ないということはあるようです。

 蛙は、琉球と蝦夷地が「最近、この国に取り込まれたもの」という風に考えているわけですが、「東日本」も、もともと「日本ではなかった」とも考えているのですね。

 「邪馬台国はどこか」という論争もあるようですが、およそ「律令」の頃、「この国」の範囲はどの程度だったのでしょうか。
 宮城あたりには8世紀の記録があるようですが、これも「古代大和朝廷の侵略の歴史」の有り様と捉えるべきでしょう。
 概して、東北は明らかに「蝦夷地」だったと考えてよいと思います。

 「江戸」から「明治」あたりの記録では、青森から九州まで、「部落」があるわけですが、東北あたりは相当少ない。

 「封建制」が確立されていく過程で、「無いところ」に移植されたのではないかと蛙は考えています。

 「被差別部落」の「起源論」ということが取り沙汰されるのですが、蛙はそのことをさほど重要なことと考えていない。

 重要なのは、「今、現にそれが『再生産』されていく社会の構造の理解」に注目すべきだと思っているのです。
 

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蛙の差別論 2

 北海道と沖縄には「被差別部落」はありません。

 このことは、これらの地が「日本国」ではなかったこと、比較的最近、この国に組み入れられたことの証左です。
 このことは「学校教育」「歴史」で触れられることはあっても、「さして重要なことではない」という扱いになっているのではないでしょうか。

 北海道は「蝦夷地」と呼ばれ、慶長九年(1604年)一月に徳川家康から安堵状が与えられて松前藩が成立して以降、紆余曲折を経て(この辺りを丁寧にやると大分な本になります)この国に組み入れられます。

 また、沖縄も「琉球処分」と呼ばれている、明治以降の話になります。

 この二つの地域に「部落差別」はないかというと、そんなことはありません。

 浄土真宗本願寺派札幌別院を舞台にする「差別事件」は大きく取り上げられましたから、「知る人ぞ知る」というところでしょう。

 両地において、「侵略者側」として「入植」していった「和人」「ヤマトンチュゥ」によって、それらは「持ち込まれて」いきます。

 両地の「歴史的事情」の違いがその後を大きく規定します。

 「アイヌモシリ」では「統一国家」という指向がなかったようで、「部族社会」が「解体」されていくというような経緯だったと考えられます。
 彼の地では、人と神と生き物たちが豊かで幸せな時間を共有していたことが伺われますから、発想として「国家」などということに行き着くことがなかったのだろうと、蛙は思います。

 沖縄は、「琉球王国」という「立派な国家」でした。
 沖縄に中心をおいてコンパスで円を描いてみると、どれほど、この「地」が東アジアで重要な場所であるかということがよく分かります。
 「琉球王国」はそれだから「交易の中心地」として豊かな暮らしを形作ってきたのでした。
 その「重要性」「地の利」の故に、戦前の「日帝」、戦後の「米帝」からする「支配の戦略的拠点」として位置づけられることになり、結果、沖縄の人々の不幸を招来することになりました。
 私たちの側には、この地を「平和の拠点」にする重要な任務が課せられています。

 振り返ってみて「和人」「ヤマトンチュゥ」である私たちには、重い「責任」があるということです。
 

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蛙の「差別」論 1

 あと20年くらいは生きていたいと考えていますが、どうなりますことやら...
 ちと、無理かなぁ。

 取り敢えず「何するねん?」ということですが、考えてきたことは「部落差別を無くすることはできるか」「自分に可能なことは何か」といったことですね。

 山下さんの本では、柴谷篤弘さんの意見が引かれていました。
 いわく「人間というのはどうも『差別』が好きらしい」「けれども『差別』を許してはならないという倫理観も生得的に備わっているようだ」。

 多くの人が、「差別」は人間の存在にとって必然のように言います。

 ぼくは違うと思う。

 「個」としての人間には、「好悪」ということはある。それこそ「十人十色」。

 しかし、それは「差別問題」でありはしない。
 「差別」はむしろ「社会的」に規定されるものであると思います。
 証拠立てるものは何もありはしないけれども、「原始共産制」の世界では、「あいつは好き、こいつは嫌い」ということはあっても、「差別」などということが成立するはずもないと思うのです。
 「社会の有り様」によって、それは生まれるのだと思うのですね。

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山下さんの本から思うこと

 昨日、日曜の朝日新聞〈読書〉欄で、山下 力さんの「 被差別部落のわが半生」(平凡社新書)が紹介されていましたね。

 ぼくは発売された時点ですぐに買って、あっという間に読んでしまいました。
 現在、貸し出中で、今は手許にはありませんけど。

 「良い本」の部類にははいるのでしょう。
 「部落問題」についての「ひとつの見方」として、また、この三十年ばかりの運動について考えてみる参考資料として、そして「部落解放運動を闘ってきた一人の男の生き様」を知るという点で、「まじめな本」だとは思います。

 ぼくの立場からは、たくさんの疑問符はつきます。
 ずっと以前、朝日新聞に山下さんが記事を投稿された折から、「ちょっと違うんじゃない?」ということも思っていました。

 それは、おいおいこのページで触れていくことになるでしょう。

 今日は、一点だけ。

 奈良県の事情は、ぼくは知らない。
 現実として、同盟中央本部に属する「川口県連」と、それを割って出た「山下県連」の二つがあるという風に一般には言われる。
 言うに言えない苦労話もあるのだろう。
 最後まで、「分裂回避」の努力もされたのだろう。

 ぼく自身はどちらに与するということもない。
 残念な話だと思うだけだ。

 双方の組織に、それぞれ真面目な活動家がいる筈だ。
 いらぬ「敵対関係」が再生産されていくことはどうしても避けられないのではないだろうか。
 一旦、「分裂」をすると、その「裂け目」は拡大するばかりで、修復の困難はとんでもないものになる。

 山下さんの本を読む限り、具体的な活動のスタイルなどは、そんなにぼくとも変わるものではない。
 川口さんの「欠点」もたくさん聞いている。

 強いて、「事情」を知ろうとは思わない。
 ただ、「真面目な取り組みの中で、運動が一本化されること」を切に望むばかりだし、冷たい言い方だが、兵庫にとって「他山の石」として教訓にさせてもらうという他ない。

 そう、ぼくは思います。

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生々流転

 「人」も「組織」も、全て「存在するもの」は「生々流転」の内にある。
 生まれ、成長をし、死んでいく。
 ひとときも立ち止まることがない。

 この宇宙でさえ、「誕生」の時があり、「死滅」の日があるらしい。
 この場合はあまりに長い時間が想定をされているから、とりあえずは「私たちの問題」からはずしておいてよいかも知れない。

 「宇宙の終焉」については、以下の通り↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89

 紀元前500年の古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスは「万物は流転する」と言ったし、鴨長明も「方丈記」にそのように記している。
 仏教など、東洋思想においてもそれは基本的な考え方であるだろう。

 けれども、その考え方について述べた人の名前が記憶されていたり、そのような思想が「思想」として振り返られたりすること自体が、「そのものの力の弱さ」の表現であるとも言える。
 そういう考え方が遍(あまね)く人々のおもいの中に浸透しているのであれば、「名」はかえって忘れられ、「思想」も、そのようなものとして成立するはずもないからである。

 このあまりに当然な考え方が、「受け入れられていない」のはなぜだろうか。

 それは、「現に今ある体制」が「今、現在の支配者」にとっては、永遠に続いていてもらいたいと考えてられているからということに他ならない。
 「皇国史観」などはその典型だろう。

 「人」は、自らが限りある生命を生きているということを、普段、あまり自覚しない。

 「業」と呼ぶことも可能かも知れないが、それは「意図的な支配の側の思惑」にも因っていると、ぼくは思う。
 「公教育」の中で、人々はそのように教育・訓練をされている。
 「死すべきもの」としてある人間の有り様など、「教えられること」などありはしない。

 「自分自身のこと」や「自身が所属する組織」について、徹底して考えてみることは重要なことだと思う。

 そうでなければ、ぼくたちは「支配の側の『生きよッ!』という命令」に屈服を強要されることになる。

 「自由」などというものは、そんじょそこいらにあるものではない。
 自分は「自由に生きている」と考えていても、それは「奴隷の自由」であるかも知れない。
 相当な苦闘を通してのみ、それは得られるものなのだと、ぼくは思う。 

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北方領土だけど...

 「北方領土」に関して、ちょっと前、プーチンが「二島返還」みたいなこと言ってて、「何言うてんねんッ!」てな論調で、マスコミなんかも取り上げていましたね。

 だいたい、この「領土」なんてのが、「無政府主義者」の蛙君には理解がいかないのでありますが、1798年(寛政10)、松前蝦夷地御用取扱となった近藤重蔵が、択捉島を探検した折、その時既にあったロシア人の「碑」を蹴倒して、「大日本恵土呂府」の木柱を立てたのが、「我が国固有の領土」論の初めの初めですよ。

 ここにはアイヌの人々やウィルタ(オロッコ)(http://www.d2.dion.ne.jp/~bunkt/)の人々が住んでた。

 他人の土地を盗んでおいて「我が国の固有の領土」はないよね。

 司馬遼太郎という人、ぼくは大嫌い(第一印象だけできめつけるのはようないかも知んないけど)で、この人の本は「買わない読まない」ことに決めてたんだけど、「菜の花の沖」は高田屋嘉兵衛がこの時分にここいらあたりで活躍したってな話なそうなから、ちょっと読んでみようかなと思ってる。

 これは、もう、図書館で借りて、ということだけど....

 近藤重蔵については
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E9%87%8D%E8%94%B5 

 択捉島につては
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%9E%E6%8D%89%E5%B3%B6

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「子育て」ですけど...

 集英社新書「赤ちゃんと脳科学」(小西行郎)というのを読んでいました。

 何か、年が明けての2月には孫が生まれるそうなんですね。

 あらためて、子育てなどということを考えていたりします。

 この本は相当いいです。

 「育児書」もたくさんあるようですが、この本の著者の考え方は、「自然な子育て」を大切にしようということらしいし、最新の「脳科学」の「知見」に照らしながら、「はやりの育児論への異議申し立て」になってるようです。

 自分のを振り返って考えてみるに、「うまくいったんでないかい」という想いはありますね。

 世間の有り様からみれば、相当、ねじくれた「育ち方」かも知んないけど、娘も息子も、ぼくは「めっちゃ」好きです。

 特に娘の「ねじれ方」は相当で、「これぞDNA」というところかなぁ。

 この本では、「障害者問題」についての基本的スタンスについて、「そうよッそうよッ!」って思います。

 まぁ、「子育ては関係ないよ」って人も、一読の価値あり、です。

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名前について

 ぼくが「田所蛙治」という名前を名乗ったのはもう30年以上も前のこと。

 当時、ベトナム戦争は凄惨な状況を極めていた。

 ぼくは為す術もなくウロウロしているばっかりだったけれど、そして結局何かができたわけではないけれど、「考え得ること」はやってきたと思う。
 立ち止まったことは一度もない。

 その頃の中心メンバーのひとりだった吉川さんのHPは

http://www.jca.apc.org/~yyoffice/

 今も現役の最前線でご活躍中だ。

 チェ・ゲバラは「第2、第3のベトナムをッ!」って叫んでいた。

 この時のスローガンに「ベトナムはベトナム人の手にッ!」というのがあった。

 今なら「アフガンはアフガンの人々の手にッ!」「イラクはイラク人の手にッ!」ということになる。(民族問題など複雑な状況もあるから単純にはいかないかも知れないけれど)

 「田所蛙治」はこのスローガンの翻訳ということだ。
 「田んぼは蛙にッ!」ってわけ。

 「蛙」についての「思い入れ」が、ぼくにはあった。

 芥川龍之介の「河童」では、河童は「お前は蛙だッ!」という「差別的言辞」を吐かれて、悩み苦しみ、ついには「死」に至ることになる。
 高校生の時に読んだのだ。

 当時のぼくにとっては「蛙」は「エタ」に当たる。

 「そこ」を突き抜ける「思想」が若かったぼくには必要だった。

 うまく「想い」は表現できないが、「田所蛙治」という名前は、ぼくにとっては相当重い意味がこめられている。

 サッカー人気の中で、小中生の中には韓国プレイヤーの名前も浸透してきている。
 今では、在日の3世・4世が「二つ名前を持っている」ことについて、若い世代に「かっこいいじゃんッ!」という雰囲気もあると聞いた。

 けれども、当事者にとって「本名を名のる」ことは今でもたいそう重い。

 「アイヌモシリ」でも「ウチナー」でも「チョソン」でも、「名前」は「日本国」の権力によって奪われてきた。
 「名前」を取り返すこと、「文化」を奪い返すこと、それらは重要な課題であるだろう。
 「千と千尋」でも、支配は「名前を奪われる」ことで貫徹をされ、「名前」を取り戻すことによって「自由を奪い返す」ことが可能だったというテーマも重要な伏線として置かれている。

 それだから、「ハンドル」とか「ペンネーム」などと「ヤワ」な話は「やめてくれッ!」ということも分からないではない。

 けれどもちょっと待って欲しいとぼくは思う。

 「名前」とは何だろうか。

 親は我が子の誕生を言祝(ことほ)ぎ、その生涯に「幸多かれ」との「想い」を込めて「命名」をするのだろう。

 けれども、それは「戸籍」に登録をされ、「支配の枠組み」に組み込まれていくことでもある。

 「名前」なんて「識別記号」に過ぎないとぼくは思う。

 昔、「幼名」というものがあって、「元服」の折に「名乗り」があったのではないかとぼくは思っている。

 それだから、誰もが、自由な意志で「自分の名前を選んでいく」、そういう風になればどんなにいいだろうと思うのだ。
 

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最近見た映画...

 「血と骨」ですが、梁 石日さんの原作は読んでいましたし、崔洋一監督作品なんだから絶対見に行こうと思っていたのですね。

 期待が大きすぎたせいでしょう。
 「も一つだったなぁ」というところです。
 私にとっては「ビートたけし」の個性が強すぎて、「ミスキャストでないか」という印象。

 この映画の感想について、ネットで色々な人のを読んでいたのですが、一般にそれなりな評価があるようです。
 もっとも、評価しない人は感想も書くことはないでしょうから、どうなんかね。

 「原作を読むのが一番」、というところです。

 もう一本は「モーターサイクルダイアリーズ」ですが、これはお薦めです。
 シネリーブル神戸(旧朝日会館・大丸神戸東側)で、もう1週(12月13日(月)~12月24日(金))、「レイトショウ」(1000円)があります。

 まなみさんから「ゲバラの映画、来てるけど、見たん?」って言われるまで、この映画のこと、知らなかったです。
 チェ・ゲバラについては、よく知っている積もりでしたが、考えてみれば、彼がキューバ革命運動に投じて以降、ボリビアで殺害されるまでのことしか知らなかった。
 彼の青春時代を描いたこの映画は「最高ッ!」というところですね。
 ハンセン病療養施設を舞台にする感動的な場面は胸を打つものでしたし、彼の生涯の闘いの原点がこの映画に示されているように思いました。

 集英社文庫「チェ・ゲバラの遙かな旅」(戸井十月)という本も読みました。
 こちらもお薦めです。

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幸田真音の本を読んでいました

 最近、幸田真音(こうだまいん)さんの本を続けて読んでいました。

 「日本国債(上下)」「マネーハッキング」。

 最新刊は「日銀券(上下)」で、あわせて3千円もするので迷っていましたが、多分買うことになるでしょうね。

 彼女のオフィシャルサイトは以下の通り。

http://www.kt.rim.or.jp/~maink/top.html

 以前、「ひょうご部落解放」誌に、現実の世界経済の有り様、実体経済からあまりにかけ離れた「マネー資本主義」「カジノ資本主義」について、もっと注目がされなければならない、その意味が理解されなければならないといった指摘をしたりしていました。

 以降も、「金融市場」について、例えば「デリバティブとは何か」とか「為替とは何か」「通貨危機について」などなど、自分なりに勉強しておりました。

 幸田さんの想いは、「実際の現場」で、自身の経験を通して、「フィクション」だからこそかえって「真実に肉薄することができる」というところにあるのかも知れません。
 迫力のある内容になっているように思います。

 そもそも「貨幣とは何か」という本質的な「問い」につながる話にならなければならないのですが、現実はもっとプラグマティックで、「市場」は前提をされ、その中で、いかに振る舞うことが「有利」であるかということが最大の眼目になっている。動員されるのは「スーパーコンピューター」と最新の「数学的知見」。
「ブラックショールズ式」(
http://www.findai.com/kouza/4009opt.html)
とか....

 「対抗する威力(ちから)」の可能性。

 「反グローバリズム」として実現された「WTOシアトル」http://tanakanews.com/991206WTO.htm
 での闘いの意味などもしっかり考えてみなければならないし、

 一貫して、「もう一つの可能性」を主張されてきた内橋克人さん
http://www.tokyo-np.co.jp/doyou/text/d91.html
 の仕事を、私たちは、真剣に受けとめていかなければならないと思う。
 

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「僕の叔父さん 網野善彦」を読みましょう

 11月22日付けで集英社新書から、「僕の叔父さん 網野善彦」という本が出ています。

 網野さんは、今年の2月27日に亡くなられたのだったと思います。
 「この国」を本当に理解するために、重大な問題提起を残されました。
 とりわけ「天皇制を克服することは可能なのか」とか「差別問題を解決するとはどういうことか」といった、私の問題意識に大きな影響を与えてくれました。
 十分な理解ができている訳ではないですが、この後も「網野さんの仕事」と格闘していこうと考えておりました。

 この本の著者、中沢新一さんは、「オヤジの妹のツレアイ」として、網野さんと出合い、半世紀にわたる交流を通して、「網野史学」の一番深い理解者ということになるのでしょう。

 たいへん勉強になりました。

 最後の「別れ」の話など、涙無しには読めませんでした。

 是非、みなさんにも読んでいただきたいですね。

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