中一だから歳にして十二か十三ということになる。
「越境」ということで、本来進学すべきだった中学校には行かなかった。
ここは凄いとこで、親爺は、進学のために実際に「家」を一軒買ってしまう。
道理にかなわぬことをしたくなかったのだろう。
ちゃんと「住む家はあるのだ」し、弟と二人の妹もここに「籍」を置いて、ムラからの脱出を図ったわけだ。
この時、「本籍」までをも書き換えている。
ムラ内では「三回、籍を移せば出身は分からなくなる」などということがまことしやかに言われていたりする。
「戸籍」なんて、部落差別ばかりでなく、あらゆる差別の源泉になっているのだからやめにしたほうがいいに決まっている。
こんな「制度」があるのは、日本と、日本が植民地支配することによってそれを植えつけた台湾と韓国にしかないはずだ。
ということで、中学・高校の六年間、蛙はこの家に殆ど一人で住まうことになる。
といっても、学校から帰って夕ご飯までのことで、寝食はムラの親の家。
こんな少年の時期に家一軒あてがわれて、好き放題に暮らしてた。
ただ、自分の内側だけに関心があったから、周りでどんなことが起こっていたか、皆目分かっていなかった。
後して知ったことだが、この時期、神戸・大阪あたりの中学校で「第一次暴力教室事件」などと言われたりする話があった。
新聞などで大々的にしかも差別的に報道をされ、反差別の運動も大きく盛り上がっていたらしい。
ウチのムラの話としても、「暴力教室事件」を契機に一般地区の側が子どもたちを中学に行かせず「寺子屋」みたようなかっこうで「同盟休校」を組織したりしたのだが、それに対抗して、一般地区の中心メンバーの一人、社会党市会議員Y宅に、ムラの人たちは、数台のトラックの荷台に分乗して抗議行動をやったりしている。
そんなこんなも、「あっしには関わりのねぇことでござんす」てな具合に蛙は生きてきたのだ。
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昨日はアウンサンスーチーさんの63歳の誕生日でした。
蛙は4月生まれだから、ほんの少し「お兄さん」。
PFB(ビルマ市民フォーラム)の記事も読んでおいてください。
http://pfbkatsudo.blogspot.com/
この日、NLDのデモでも逮捕者が出ている。
遠くから、どんな支援ができるのか、悩ましい限り。
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その「2年間」が「それはそれで素晴らしい」ものだったというのは、勿論、四十数年を経た今だから言えること。
この時、蛙は人間として「ぶっ壊れてしまった」のだ。
「見晴るかす地平の向こうには輝く未来が・・」などという、子どもらしい『思い込み』が失われ、底知れぬ深い闇の中を堕ちていく、そんな感覚が体を硬直させていた。
今で言う「ひきこもり」とか「鬱」というような風で、友人に連れられて阪大の精神科へ行った記憶がある。詳細はどこか霧の向こうにおいてきたように不分明だが...
それが何故「素晴らしい」と言えるかと云えば、一つには、もし「壊れぬまま」今に至っていたら、きっと、とても厭な人間になっていただろうということがある。
自分の言動が他者を傷つけることがあったとしても、そんなことに無頓着な人間であったのだから...
また二つには、少ないけれど、自分を護り育ててくれた素晴らしい友人や先輩に恵まれたことがある。
三つには、ホンモノの「唯物論」や「弁証法」を教えてもらったということもある。
これらのことは「今」だから言えること。
今では「生きていてよかった」と思えるようになったけれど、この後、「死ぬこと」ばかり考えていた5年間が始まる。
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生れ落ちたムラが特別な目で見られているなどということは、小学校の低学年の頃から意識はされていた。
親からは何も教えられることはなかった。
友人たちから得た情報なのだ。
通っていた小学校は、信じられないかもしれないが、全員が「被差別部落民」。
「部落学校」などという呼称もあった。
全国でゆうても、西宮とウチだけだったのだと思う。
蛙の生家は、ムラでも資産家の部類に入っていたのだろう。
テレビジョンセットなるものが普及していく時代、ムラでは三番目に購入している。
「力道山の時代」だ。
プロレス中継の夜は、店の前にテレビを据えて、見物客が黒山の人だかりだった。
六人兄弟姉妹の三番目で、長女と長男はそれなりな苦労もしたようだけど、蛙はタダタダ自由奔放に育った。
ガッコの成績も、そりゃ一番になるだろ。
仲間はといえば、まるで「勉強する」ような条件に恵まれていなかったんだから...
中学校にあがる段になって、兄もそうだったのだけれど、ムラの子たちがいくべき学校ではなく、所謂「越境入学」ということになる。
「井の中の蛙大海を知らず」ということを小学校の教師に言われて、「ナニクソッ!」なんて想いもあったから、行った先の中学でも成績はトップクラスだった。
この時、友人からは「お前んとこ、えらい怖いトコみたいやけど、お前は違うなぁ」なんて言われて、「そんなことないで。うちんとこ、怖いことなーもあらへんがな」なんて受け答えしてた。
それが「差別意識」なんやって想い、皆目無かった。
高校も近隣では進学校として有名なところへ入学する。
入った途端にクラス委員長に指名されたから、入学試験の成績がトップクラスだったんだろうと思う。
そもそもそんなに教科書中心の勉強やガッコの先生なんか、好きではなかったから、高校の三年間で相当成績は落ちることになる。
本を読むのは好きだったから、大概な世界文学・日本文学は読んでるし、英語も面白かったからペンギンのペーパーバックなんかもよく読んでた。
大学進学を控えて、蛙の学力からは進学指導の教師から「文科系」をすすめられたけど、「文系なんてチャンチャラおかしい」なんて思うような人間に育ってて、「理系」に進むことになる。
ちょうどこの頃、「高校生の科学」てな雑誌があって、そこで、後にノーベル賞をもらうことになる福井先生の仕事の紹介があった。
コンピュータが、大きなビルのワンフロアーを占拠していて、真空管がコアだった時代、それだって今のノートパソコンの能力にも及ばぬものだったのだけれど、福井先生の仕事や、それ以外に集めていた情報から、蛙は「これからはコンピューターの時代になるだろう。それにはゼッタイ小型化が求められる。コンピューターの心臓部の『素子』の開発はニューセラミックスの技術に拠るに違いない。そういう最先端な仕事をしたい」と思った。
で、福井先生のおる大学を選んだのだけれど、これは思惑がはずれる。
先生は自分の大学の生徒など「ハナにもかけない」人で、京大閥でなければ「人にあらず」てな具合だった。
そういうわけで、この大学は2年でおさらばするのだけれど、ここで学んだことは蛙の人生を決定するものになったし、それはそれで、素晴らしい2年間であったとは思うのだ。
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蛙は「難しい話」は嫌いなんである。
「哲学」とか「科学」とか、或いは「世界史的現状分析」など、そんな本を読むことが多いのだけど、そしてそこで多くのことを学ぶのだけれど、どうしてこれらの情報がフツーの人々のコトバで語られないのか、それだから、届かないのかという、悲しい想いがあるのだ。
ほいで、蛙が、そこから得た有意義な話を、蛙のコトバでフツーな人々に伝える、そういう力が無いことを無念に思う。
「流通するコトバ」は敵側の思想に貫かれている。
「分かりやすさ」という話でいえば、小泉のとった戦術はみごとだったのだ。
「自民党をぶっ壊すッ!」「痛みをともなっても改革無しに未来はないッ!」
小泉のポピュリズムは圧倒的な支持を受けた。
あの「衆院選」。
今、漸く、騙されたことに気づく人々も増えてきた。
蛙は難しい話は嫌いなんである。
けれども、易しい、分かり易いコトバで、反権力の道筋を、伝えていく、そういう力。
今、一番、手に入れたい力。
それは可能なのだろうか。
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台風が近づいているせいか、雨。
ここんとこ、考えること、多いし、煩雑な仕事にも振り回されてる。
疲れたビーッってとこだね。
ほいでも周りでは大変なことになってる。
ビルマのサイクロン被害についても思うこと多い。
マスメディアは「ミャンマーミャンマーッ!」って叫んでて、その実、有効な情報は提供してくれない。
軍政が何をしてるか、ネットではある程度のことは分かる。
蛙はメッチャ苛々し通しだけど、じゃ何するん?てなとこで泣いてるしかできないのが口惜しい。
四川省地震もそう。
四川省のことも気にはなるけど、被害はチベットだって相当なもんなんだけど、報道はされることがない。
いつだって、「阪神淡路大震災」だってそうだけど、「国」は、人々を護ったりしない。
何も出来ない自分が歯がゆい!
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どんな仕事だって、それが社会的に有用な役割を果たしてる限り、とても大切なことなのだと蛙は思う。
それでも、一般に、3Kとか賤業とかいう「言葉」が通用するのだから、この国の社会通念がどれ程差別を容認するようなものとして形作られているか、明々白々というところだよね。
その昔、朝田善之助という人がいて、同盟の委員長なんかやってたわけだけど、蛙は、この人とじぇんじぇん付き合い、なかったのに、何故だか、大ッ嫌いッ!
まず、今でも同盟の多くの活動家が信奉している「三命題」ってのがあって、こりゃ朝善が言い出したことなんだけど、蛙はとっても胡散臭いって思ってるんだ。
いつかきちんと、死ぬまでには「反論」を書いておきたいって思ってる。
いいたいことをちょこっと言えば、一つには「ドイツイデオロギー」の剽窃というか戯画化というか、そういうとこ、あるし、何よりも、「君ッ!それってトートロジーそのものでないかいッ!」てなことになる。
思想的に低劣なのに威力だけは立派なんだ。
それと、彼が提唱した「三シー運動」てのがある。
部落の若いモンは頑張って勉強して、「教師・医師・弁護士」になってかなきゃなんない。
三つの「シ」で「三シー運動」ちゅうわけだ。
識字運動でもそうだけど、蛙が学んできたことは、「字を知って、字を知らぬ人を馬鹿にするようになるんならハナッからやめておいた方がいい」ということだ。
確かに、それら「三シー」を運動が育て上げ、そのことが運動に返されていく、そういうことを目指した気持ちは分からんでもないけれど、「三シー」がなんぼのもんじゃいって蛙は思う。
実際、その成果にあまりお目にかかったことがない。
どんな「仕事」も、その意義が正しく評価され、人々が互いを尊敬しあえる、そういうことを部落解放運動は目指してきたはずなんだ。
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自分が生きていく道筋みたぁなとこで「したいこと、しなければならないこと」があるとして、それが生活の糧を稼ぐ「仕事」と一致してるなんて人、そりゃすっごく幸せな人だよね。
蛙の場合、部落差別問題とは何か、その解決の一助になるような活動は可能か、そんな想いで、ここ30数年ということになる。
27歳で神戸市の環境局職員、主には「屎尿収集作業員」として、バキュームカーに乗って仕事をしてきた。
奈良や京都の不祥事では、環境局職員の「同和枠採用」てな話がからんでたが、神戸ではそんな話は無かった。
ただ、「労務管理」がメッチャ緩くて、その上、「同盟の仕事やねん」っていうだけで、「早帰り」が通ったり、「職免」っていうのだけど、公式の同盟の活動で「休み」が認められたりということがあったわけで、「それだから」蛙はこの仕事を選んだのだわ。
それで、「仕事は二の次」みたぁなことでやってきた。
そんなことが何時までも通用する筈も無い。
「法期限」が切れる頃から、全ての「既得権」みたようなものは切り捨てられてしまった。
で、退職をした後も、所謂「天下り」みたようなもんだけど、「環境局」の仕事にぶら下がるような「仕事」について、三年目。
「天下り」と言っても、高級官僚のそれとは大違い。
メッチャ安月給で、本来、本業の公務員がするべき仕事を肩代わりさせられてる。
それでも、この歳で16~7万円持って帰れる仕事なんてないからなぁ。
蛙は、お金は嫌いなんで、ただ、ツレアイにケツたたかれて、「アンタ、家において置いたら、じっきにアル中になって死んでしまうから、仕事行きヨッ!」てなわけで行ってるわけで、稼いだ金はみな、若い人たちにおいしいものを食べてもらうのに使おう、とか、いろんな運動にカンパしよう、なんて思ってるわけ。
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漱石さんチの猫には名前がまだないらしいけど、ウチのには立派なのがある。
「怪傑豪傑」。通称、「カイ」君。
息子が学生時分、下宿先で保護したノラなんだけれど、連れ帰ってきて「部屋猫」として、もう6、7年になるようだ。
「9条をまもろう」てな新聞一面広告にだって、その名は載ったりしてる。
これは「市民運動」なんだから、猫が名前を連ねるのはルール違反かも知れないが...
「カイッ!」って呼んだりすれば、ちゃんと返事をする。
人間の場合、一人ひとりに固有の名前が付くようになったのはいつ頃からなんだろうか。
「私有財産」などという概念が生まれる前までには必須だったろうね。
「人間は社会的動物」てなことも言うけれど、猿とかミツバチやアリなんて、多分、他者から個を区別立てする必要性などないだろう。
「名前を持ってる人間」ってすごく不思議だ。
「姓名」などというのもごく最近に「ある」ようになったんだ。
自分の名前が「何野何兵衛」であるか、誰もが知ってるだろうけれど、大概、本人に断りも無く親が勝手に付けたもんなんだし、そのように名付けされる必然性なんて何も無い。
親の想いは大切にしたいとは思うけど、古い時代に「幼名」などというものがあったように、成人すれば、名前を変える、それも「自分で選ぶ」ってことにした方がいいと蛙は思うね。
生まれてから死ぬまで名前が一つってのは、支配の側の都合なんだよ。
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前稿の続きということになるけれど、チベット情報について、色々ページはあるようだね。
一つ、紹介をしておきますわ。
http://blog.livedoor.jp/rftibet/
大体、この世界で、「先進国」とか「後進国、あるいは発展途上国」という「言い回し」があること自体、蛙には許されぬこと、って想いがあるんだわ。
事実は、侵略者・略奪者の国々とその被害を受け続けてきた国々という風に二分されるというのが、この世界の構図だよね。
キムチョンミさんは、「若しか、日本国が、その歴史の上で、被害を与え続けてきた人々に、きちんとその『賠償責任』を果たすことがあったとすれば、そりゃ、世界の『最貧国』になっちゃうよね」てなこと、どっかに書いてた。
中国は、チベットの民衆に対して激しい弾圧をもって、現在、対応してるようだ。
チベットにしてもモンゴル問題にしても、さらにはもっと多くの少数民族問題なども、中国の建国以来、くすぶり続けてる火種はあるわけで、当の権力の側にしてみれば、一歩の譲歩も許されぬ状況ではあるだろう。
さて、世界はどう対応する?
ロシアは同様の問題をかかえてるから、中国支持だろうね。
アメリカ・イスラエルなどは、どっちが得策か「政治判断」てことだろう。
日本はその判断を待っての追随。
いづれにしろ、難しい話ではありますよ。
蛙は、真面目に頑張ってる選手たちには気の毒だけど、「北京五輪」がぶっ壊れるのも、この後の歴史的な展開として、よい方向に結びつくかも知れないなぁなんて思ったりもしてる。
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蛙はオリンピックなどというものに興味がないから、あまりテレビ中継なんか見たことがないし、いかにも政治的な利用のされ方や「銭儲け主義」みたような話などもあって、胡散臭いなぁなんて思ってたりする。
勿論、そこに精一杯の努力を傾けて挑戦する選手たちを愚弄しようなどとは思わないけれど、「したい人がし、見たい人が見ればいいんじゃない」ってなくらいかなぁ。
ほいで、今回の「北京五輪」だけど、「チベット問題」がらみでややこしいことになってるみたい。
蛙としては「チベット独立支持」なんだけど、正しいことが実現されるにはそれなりな「過程」がいるんでないかと思うし、今のような「在り様」はどうなんだろうかと思う。
早い話、「北海道はウタリに返すべき」とか「沖縄は<ウチナー>の人々に返すべき」なんて蛙は過激な思想の持ち主なんであるけれど、それは「今すぐ」とか「無条件で」とかってことでなく、「そこへ向けて」どんなことが可能なのかってこと。
この国の人々は、そんな話を聞いても奇異に思うだけなんだし....
チベット独立だって、そこへ向けての順序があるだろうと思う。
中国の人々にはダライ・ラマなんて悪魔に見えるはずだね。
彼は賢いから「北京五輪支持」を繰り返しアナウンスしてるけどね。
「正しいこと」って何なんだろうって思うよ、ホント。
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人権を大切に思う組織の文書で、ビルマをミャンマーって表記するっって、どういう神経をしてるのだろう。
確かに、ビルマの歴史はたいそう入り組んでいて、一言では言い表されるものではないけれど、この国に「難民」として逃れてきているビルマの人々は、自分の国の名前を「ミャンマー」とは決して呼ばない。
「ビルマ」と「ミャンマー」って、例えば、「日本」を「ニッポン」と言うか「ニホン」と言うかくらいな違いに過ぎないっていう人もいる。
手許に、解放出版から出された写真集「ビルマ 軍政下に生きる人びと」(宇田有三)がある。
ビルマと私らが住まうこの国とは歴史的に見ても深い「因縁」に結ばれているのだけれど、この国の人はあまりに無関心に過ぎる。
ビルマの人びとの苦悩は、他ならぬ、その軍政を支え続ける「日本」にも大きな責任があるというのに...
「私たちのことをもっと知ってほしい!」
ビルマの人びとはそう叫んでいる。
長井健司さんが、取材中に殺された。
彼が何を思い、何に惹かれていたか、そういうことにもっと想いをいたして欲しい。
ただ、「邦人が殺された!酷い話だ!」みたいな程度で受け止められ、時間の経過の中で忘れ去られていくのなら、あまりに悲しい。
人権について、思いをいたすなら、その国を、軍政が一方的に改名した「ミャンマー」などと呼べないはずだと蛙は思う。
些細なことに苛立つのは、人間として小さきに過ぎるのかも知れないが....
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思うのだけど、毎日報道をされる悲しい現実、この国のこともそう、世界もそう、何だか世も末だなぁってね。
それでも、みんな、しっかり生きてるって思うこともある。
人間なんて、大したもんじゃない。
あることがあるようにしかないんだよ。
まぁ、蛙君などは、そんなことは分かりきったことと思いながら、ジタバタ、シッチャカメッチャカ、ウロウロってな毎日。
本日、駅のホームで佐藤先生とばったり出会って、ほんの少しお喋り。
「在日無年金」の取り組みで、これまで放置されてきた「2級障害者問題」での一定の前進。
アナウンスは受けてたから、初めて聞く話じゃなかったけど、先生の原点みたぁなとこだから、ホントに喜んでおられたようだ。
「解決に向けて、大きな一歩ですよね」って蛙は言ったけど、自分自身がそのことに力を尽くせたとも思わないから、ズシンと重く、今後の奮起をってこと、思った。
そういう立場にこれから立つ筈だろうし….
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沖縄には「チムグル(肝苦)シーッ!」ってなことばがあるそうな。
花崎 皋平さんの「静かな大地」を読みおわって随分になるのだけれど、一ページ一ページを繰る度に、そんな風に酷く重い気分だったのだ。
何か書かなければなんて思いながらも、なかなか手が進まなかった。
全ての「和人」はこの本を読まなければなるまいって思った。
20年ばかり前に書かれたものなんだけど、その頃の蛙は「子育て真っ最中」で、もっぱら「子どもの本」を集中して読んでいたからだろう、この本とは当時、出会うことができなかった。
改めて本年、岩波現代文庫に集録されての「復刻」。
この20年の間に様々なことがあった。
「旧土人保護法」が廃止をされ「アイヌ新法」がさだめられた。
萱野さんが国会議員になってアイヌ語で演説をされたということもあった。
「二風谷ダム」訴訟も結審をした。
これらのことの一つひとつの意味がどれほど人々に理解されているのだろう。
まぁ、アイヌの人々からは怒られるかも知れないが、ものごとはゆっくり進むしかないのかも知れない。
気づいた人が発言をしていかなければなるまい。
ちょうど、「新法」が話題になっていた頃だろうと思うけど、神戸で同盟主催の集会でのこと。
アイヌの若い女性の「講演」があって、その歴史や問題点、それと自分たちがアイヌであることを名乗ることの重さなどを話されたことがあった。
それはそれで、そんな話が聞けたことは蛙にはよい経験ではあったのだ。
ほいで、聴衆からの質問ということになったのだけど、「アイヌの人は何を食べているのですか」っていうのがあった。
蛙にはこれは酷いショックだった。
「お前、解放同盟員だろがッ!」「『講演』に参加するにあたってちとは勉強しろよッ!」
とても蛙には信じがたいことだった。
「オオサンショウウオは何を食べるのか」という質問とレベルはどう違うのか、「同じ人間」として「アイヌ」を見る目があるのか、「東京の人は何を食べるのか」という質問を君はするのかッ、てな具合に、蛙の頭は爆発したのだ。
まぁ、こりゃ、蛙の「狭量」の故のことなんだろうけどね。
いつもわけ分からんことしか言わないで、すみません。
ほいでも、みんな、「アイヌ問題とは何か」とか「<北海道>って何?」とか、ちとは勉強しろよッって思うんだわ。
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「資本主義」の反対語って何なん?という質問には大方の人は「社会主義・共産主義」って答えるんだろうと思う。
蛙なら、「人間主義」って答えるのだけれど、同意してもらえる人は一億人に一人くらいな割合じゃないかなぁ。
「共産主義」の「親玉」っていえばマルクスというのは「常識」みたいだけど、大抵の人はマルクスの思想をきちんと跡付けて追って考えてみたことがないのだと思う。
エンゲルスからレーニンに至る過程で、その時代の政治的要請とか「分かり易さ」とかいうことで「マルクス主義」はどんどん卑俗化されていって、スターリン時代と日本共産党の歴史の中で、「人間主義」であったはずの「思想」はその「反対物」に転化してしまったっていう風に蛙は考えている。
マルクスは、自身が見ている「世界」について、その「不幸」が何に起因するか、その「不幸」を「克服する」ことは可能かという問題意識から出発をしている。
それだから、初めに「商品」について考え、それが「貨幣」を必然化すること、その過程から「資本」が生成されること、その「運動」が歴史を決定していくことを「資本論」の完成によって明らかにしようとした。
これは「未完」に終わっているし、また、以降の150年以上の時間の経過からは、彼が見ることができなかった「現実」の変遷があるのであって、それを踏まえた「新しい人間主義」の理論が期待されているということになるのだろう。
マルクスの時代になかったものとしては、一つには「帝国主義」という概念で、これについてはレーニンの仕事は高く評価されるべきだろうが、既に時代はそこをも突き抜けて「貨幣そのものの商品化」の時代に至っているということがある。
「資本」が世界性を持つことの必然性については既に彼において示されてはいたが、眼前にある「グローバリズム」の分析は、その「質」において、大きな変化があったのであるから、ここにおいても時代に対応する「新しい理論」が期待されていると言わねばならない。
また一つには「熱力学」にいう「エントロピー増大の法則」ということもある。
マルクスの時代の「エネルギー源」は石炭であり、産業革命はそれによって進行したけれど、現在「化石文明」と呼ばれたりする「石油エネルギー」に依存していて、世界は加速度的に「荒廃」が進みつつある。
一般に「環境問題」として理解されていることに関わる話だけれど、「問題の立て方」自体が表層的に過ぎるように蛙には見える。
「一酸化炭素排出量削減」などといった小手先な話ではなく「文明そのものの根本的な転換」を目指した「新しい理論」が構想されなければならないと思うのだ。
「新しい」「新しい」と言っても、解明されていない理論や法則の発見ということでなく、きっとそれは、アイヌ民族や世界の先住民族の伝統文化の復権ー後戻りではなくその智慧から学びながらという意味でーということなるはずだと、蛙は思う。
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全体、蛙としては冬眠の時期なんであって、生活の活動レベルが相当低下しているんだ。
「同盟」支部の仕事も最低限なことしかでけてないし、本もあまり読めていない。
最近読み終わったのは、内橋克人さんの「<節度の経済学>の時代」(朝日文庫)と塩見鮮一郎の「弾左衛門とその時代」(河出文庫)。
特に「目の前が開けた」てなことでもないけれど、「いい本」の部類には入るのかなぁ。
引き続き四冊ばかり読み始めたところ。
「静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族」
(岩波現代文庫) 花崎皋平
これは、やっと五分の一くらい読んだところだけど、とてもよい本だと思う。
花崎さんは蛙が最も尊敬をする人のひとりだ。
あと、
【対論】言語学が輝いていた時代 鈴木孝夫・田中克彦 岩波書店
細胞の文化、ヒトの社会 池田清彦 北大路書房
構造構成主義とは何か 西條剛央 北大路書房
というところ。
田中さんと池田君は蛙の大好きな人で、期待は裏切られないと思うし、
西條という人は全然知らないけど、池田君が推薦文を書いてたりするもんだから、面白いかなぁなんて思ってる。
読み終わったら、コメントをUPすることになるかも知れないね。
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あれこれと、思うことは多いけど、ブログ更新ということになかなかならない。
入ってくる情報が中途半端な気がするし、こちらの対応も不十分に過ぎるからね。
いづれにしろ、一番は「気分が乗らない」ってことだろうか。
ホントは新聞なんかやめたいんだけど、ツレアイが「どうしても」ってもんだから「朝日」を購読してる。
ほいで、最近、キューバのことだけど、フィデルが高齢につき退任、次代に政権を委譲ってな話、何回か記事になってる。
「朝日」のスタンスは、キューバは「一党独裁で民主主義の無い国」で、フィデルの「院政」ということらしいから「困ったものだ」ということらしい。
キューバ国民は窮乏に瀕していて変化が望まれている、「自由主義」の側に舵が切られなければならないっていうんだね。
馬鹿なことをいうなよって思う。
確かにキューバ経済は苦しい状況にあるけれど、それはアメリカの「経済封鎖」が直接の原因なのだということに触れようともしないし、肝心の南アメリカの多くの国や民衆がキューバを支持しアメリカの支配に叛旗を揚げている現実を評価するどころか、隠蔽してしてしまうのだから、これはもう「ジャーナリスト魂」などということからかけ離れて「アメリカに屈服」する醜悪なメディアになり下がってしまったってことだよね。
「民主主義」ってのは最も洗練された「支配者側の独裁のシステム」なんだよ。
その証拠に「民主主義」を標榜するこの国の民衆にはホントの意味での「自由」も「豊かさ」も保障をされてなどいないじゃないか。
「沖縄」の話も「イージス」の話も、民衆には、こんな風に情報が隠された儘ってことになるんだろうか。
「海兵隊」もいらない、「イージス」もいらない、それが真実ってもんじゃないか。
そんなわけで、宮武外骨の漫画じゃないけど、蛙の頭は爆発ってなところだわ。
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したたかに酔っぱらっていたせいか、「飲み会」の帰り道で、仲良しのHaさんから米原万里の本を薦められたらしいのだけど、彼女が何をゆうてたか、よく覚えてない。
で、3冊、貸していただいて、読み終わったところ。
「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「ロシアは今日も荒れ模様」「オリガ・モリソヴナの反語法」。
この人のことはよく知らなかったけれど、なんか「賞」をもらってる作家で、ちっとは有名な、ちゅうくらいなことは思っていた。
蛙はすごい「偏向人間」で、読む本も相当「傾向的」なんである。
とりあえず「部落」がらみは最低限のものにしか目を通してないけど、まッ、これを一番としても、あとは、「哲学」「数学」「物理学」「生物学」「経済学」「政治・社会学」それと「言語学」てな具合になる。
小説や所謂「文学」なんてのは、じぇんじぇん読みたいとは思わないんだね。
例外もあってF・フォーサイスとか「ヴィク・シリーズ」は全部読んでるし、山本周五郎とか帚木蓬生とかは殆ど全部読んでると思う。
それで、万里さんの本だけど、蛙より五つばかり年下なのに、二年前に子宮ガンで早世されたらしいのだが、彼女が居合わせた「場所」がちょうど「ソ連邦と東欧社会主義の崩壊」の「現場」だった。
その「現場からの証言」ってゆう意味では貴重な「歴史的資料」と言っていいと思う。
勿論、作家としての力量も評価していいのだろう。
読んでいて、「これって、米原昶(いたる)の娘なんじゃねぇか」って思ってNetで調べてみたら、やっぱりそうだった。
彼女の父親は日本共産党の幹部会員。
彼女自身も党員歴はあるようだが、「イリイッチ事件」に関連して党籍を離れたのではないかと思う。
そんなに早く逝ってしまってはいけないだろう。
自身と父親と「党」について、きちんと発言しないまま....
蛙はそんなことを思った。
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あまり鳥類に関して趣味がないのだけど、ウチの庭にメジロなどがやってきて、可愛いものだからみかんを半分にしておいておいたりする。
ほいでも、たいていヒヨの方が先に食べちゃうんだね。
今は食べ物が少ない時期だから、ヒヨも必死なんだろう。
今日、人と話してて、蛙が酷く誤解していたことが一つ分かった。
ウグイスはメジロとおんなし色をしてるものと思ってたんだ。
だって、花札にだって「梅にウグイス」てのがあって、メジロとおんなし色だもんね。
仕事場の窓の外には梅の木が何本かあって、そろそろ見ごろになってきてるんだけど、メジロが十数羽、飛び交ってる。
それで、蛙は「梅にウグイスって世間で言うけど、ありゃメジロと間違えてるんだよ。ウグイスは梅林にやってきたりしない。メジロとウグイスは色がおんなしだから、誤解されたんだ」と言ったわけ。
「そりゃ違う。ウグイスは雀に近い色だよ」って言われてしまった。
ネットで鳥類図鑑など見てみたら、その通りだった。
今の今まで、ウグイスは「ウグイス色」なんだと蛙は思ってたけどね。
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実際、現実は相当、ャな感じだけどね。
更新しなかった20日間、色んなことがあった。
そうなんだろうなぁとは思うけど、東の政都の石原に続けて、西の商都でも橋下が勝っちゃうてなことになった。
マスメディアの偉力ということだろうけれど、そもそも、人々は自信を喪失していて、何か強そうに見えるものに頼ってしまうって言った方が正解なんだろうなぁ。
誰もが、自身の「宗教」、或いは「物語」を持てていない。
これだと「部落差別の解決」や「民族差別」、一般にどんな「差別問題」の解決も気の遠くなるような道のりになるのだなぁなどと思ってしまう。
「冷凍ぎょうざ」の話にしたって、この国の政治の在り様が問題だったのに、本質的な論議は放置されたままだわ。
TOYOTAやCanonやら、その他、この国の中心を担う資本の利潤を最大なものにするために、農山漁村を破壊して積み上げられてきた矛盾がここにきて爆発したということなんだよね。
「食料自給率」が4割をきってる国なんて、世界中探したってあるわきゃない。
色んなことがあるけれど、蛙の気分はますます落ち込む一方。
自分が関われることって何なんだろう、何かあるんだろうかって思うもの。
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二十日ばかり更新をしてないけど、ビョーキしてたわけじゃない。
意味はないけど、「生命力」みたぁなとこで、ちと落ち込んではいた。
これが限度を超えたら「鬱」ってことになるんだろうね。
弟の前のツレアイは死んでしまったのだけど、「鬱病」だった。
弟も随分苦しんだようだけど、このビョーキとの付き合いは蛙も初めてのことだったから、考えさせられることの連続。
今もって「何か分かった」てなことでもない。
蛙は思う。
人はみな自身は「正常」だと思って暮らしているけれど、「躁」と「鬱」を両極にして、その間を行ったり来たりしてるに過ぎない。
中学くらいで習った話、バネバカリのことを考えると、或る荷重がかかったとして、その「大きさ」とバネの伸びは正比例するから、「ものの重さ」を表示することができるのだけれど、「臨界量」というものがあって、或る量を超えるとバネは伸びきってしまって、もとに戻れない。
人間の神経もこのようなものなのではないか。
「臨界量」限度内なら「戻ってくる」ことはできるけれど、それを超える精神的負担を負ったら、こりゃ壊れる。
「鬱病」というのはそういうものなのだと.....
それだから、この「限界量」を可能な限り大きな値にする、自分自身にとってもそうだけど、蛙が関わる人に伝えたいことは、そういうことになる。
そんなこと言われても、どしたら「限界量」、増やせるのよって言われそうだけど、これは「人それぞれ」。
宗教も一方策だと思う。
蛙は自分で作った「蛙教」を信じているのだからね。
誰もが自分で自身の宗教を作るってとても素敵だと思うよ。
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蛙の脳ミソはクラクラしているのである。
問題があまりに悩ましくあるのであるから…
日曜日、NHK教育TV・22時、「ぼくたちのアイヌ宣言」って番組を見た。
良心的な優れた内容のものといってよいと思う。
録画をとれなかったのが残念だけれど、いつか再放送があると思うから、それならきっと残しておきたいし、また、そういう機会があれば、みなさんにも是非観ておいていただきたいと思う。
(ぼくたちっ、てなんか「男」だけみたいやから、「あたしらの」ってのにしてくれたらなおよかったのにね)
東京に住まうアイヌの人々はおよそ千人を超えると思うけれど、その中の若い人たちが「アイヌとして生きる」、そういう想いを綴った番組だった。
もし難癖をつけるとすれば、確かに「アイヌモシリとは人間の土地という意味」で「北海道」とは「侵略者」の命名なのだということをごく控えめにはゆうてはいたけれど、アイヌに対する「和人・シャモ」の加害責任の事実やその内容などがそんなには触れられなかった点だろう。
まぁ、蛙の気に入るような内容にしたりしたら、「公共放送」に乗ったりはでけないだろうけれども…
番組では、結城庄司さんの息子さんが出ておられたり、バチェラー八重子さんの詩の話があったり、萱野さんの国会演説があったり、仲宗根の「単一民族発言」とそれに抗議するアイヌの人々のデモの映像があったり、野村エカシの国連演説があったり、相当見応えはあった。
結城庄司さんの文書やアイヌ問題については、以下のアドレスで情報は得られる。
http://www.ainu.info/index.html
それはそれとして、蛙がこの日眠りにつけなかったのは、アイヌには自身の『言語』と『文化』があるのであるから「アイデンティティ」という話にはなるけれど、「部落」には、そんなものはないのではないか、という話だ。
吉田向学さんのページと、彼から学んだ人たちのページ「ジゲ戦記」
http://rokusya.cocolog-nifty.com/blog/cat4261806/index.html
とは、ちょいちょいのぞいているのだけれど、
「運動にとって部落民の出自など、どうでもいいという風潮がとみに強いように思われますが、出自によって差別される身ならば、その出自のなんたるかを知ることは大切なことだと思うわけです。」
てな風に書かれてみると、蛙は頭を抱えてしまう。
「その出自」などというものがあるのだろうか。
ただ、恣意的に他者から「命名」されているだけに過ぎないのではないか。
アイヌには、或いは「在日」外国人などには、「アイデンティティ」は偉力(ちから)だけれど、「被差別部落」にはそんなものはない。
そう認識した上で、そのような覚悟を持って、それでもなおかつ闘っていく理論を、情念を、偉力(ちから)を、蛙は、考えたいと思っているのだ。
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蛙は間違っているのかも知れない。
提言でもそうだけど、これまで、「部落民としてのアイデンティティ」てな話を何遍も聞いてきた。
そんなものが果たしてあるのだろうか。
とても信じられることのように思えないのだ。
「人間として」ということなら、蛙は、「エタよヨツよ」と蔑まれながら六人の子を育て上げ、きっちり、それに抗して生き抜いていく力をあたしらに受け渡してくれた父や母を何よりも「誇り」に思ってはいる。
蛙が生きていく上で何よりもの力だ。
例えば、江戸時代とか、或いは「水平社」以降の闘いとか、「被差別部落」の先達がどんな風な素晴らしい「もの」を残したか、それはそれとして評価はあるだろうが、蛙個人がそのことを「誇る」ことに何の意味があるのだろう。
そんなものは「赤の他人の所業」ではないのか。
蛙はそう思うのだ。
治一郎さんのことに触れた時にも言ったけれど、その仕事を高く評価することと、「あたし」の話は何の関係も無い。
「部落民としてのアイデンティティ」なんていう「ものいい」は、自分自身の「弱さ」の表現以外のなんでもないと蛙は思うのだ。
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提言は「部落解放運動」が「戦後最大の危機に直面している」、水平社以来の「85年におよぶ輝かしい闘いの歴史も、このままでは地に堕ちることになりかねない」といい、「同盟が真に時代の要請に応える新しい運動の展望を切りひらき、人間解放の崇高な理念にもとづく活力ある組織として再生するために」「その方向性と課題」を示すのだという。
蛙も、確かに素晴らしい成果は受け継がれていくべきだとは思うが、このような肩肘張った「ものいい」には閉口する。
部落解放運動について、同盟の内外でのこのような評価は普通だけれど、「人間解放の崇高な理念にもとづく組織」という「思い込み」は、これまで、他の市民運動や社会的な運動との連携があまりにないがしろにされてきた直接の原因なのだと蛙は思う。
いかにも傲慢不遜な態度ではなかったか。
ひとり部落解放運動だけで、人間解放などというものが手繰り寄せられるはずもないではないか。
提言は、NGO・NPOや市民運動との協働に触れていないわけではないが、その表現として「さまざまな運動へ積極的に参加していく」となっており、それらの運動が「他者性」において捉えられている。
どうして「自らの課題として闘われなければならない」ということにならないのだろう。
「障害者」差別に反対する運動や民族差別との闘いの現場に、同盟は、その役割を果たしているだろうか。
それらの運動を主体的に担ってこそ面目躍如ということになるのだと思う。
でなければ、差別に反対をしていながら、同盟もまた差別者の側に転落してしまうだろう。
提言は、そのような視点に立てていない。
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蛙が「お玉杓子」だった頃、半世紀以上も前ということになる。
ムラの子どもたち仲間と、昼の光から夜の闇に移ろう薄墨のしじまの中を蝙蝠とともに遊び呆け、迷路のような路地裏を走り抜けて歓声をあげながら暮らしていた日々。
一日陽も差さぬ長屋の部屋も「幻燈遊び」にはうってつけであったのだから、蛙にとって「素晴らしい世界」ではあったのだ。
それが、大人たちの差別に抗しての苦闘にささえられ、護られての「世界」であったなどと知る由も無かった。
生れ落ちたウチがムラでは一等富裕な階層であったことによるだろう。
友と共有する世界は一つであったけれど、意味は違っていた。
蛙には「未来」が保障されていたけれど、友人たちには、親たちの苦悩の生き様を自分もまた生きなければならない予感にうち震えていた筈だ。
今にしてそう思う。
「被差別の生」を食い破る力を、誰からもどこからも与えられることなど考えられもしなかった。
そういう時代だった。
この稿は前回の続きだけれど、確かに「事業」は大きくムラを変えた。
蛙は思う。
仮に、ムラがこのように変わらず、旧態依然としたままであったとして、よく言われる「言い回し」に従えば、「劣悪な住環境」のままであったとしたら、「差別されるのは当然」ということになるのだろうか。
「同対審答申」では「劣悪な住環境が差別を生み、それがまた再生産されていく」てなことが言われていたように思う。
分からぬでもないが、どんなに酷い条件の中で生き抜いていても、そのことによって「差別されることが無い」ような「世界」を創ることこそ「完全解放」の道筋ではないのか。
「同対事業」を「完全解放」への直接の道筋と考えることは明らかに誤りであると思う。
この場合、「手段」とか「目的」とかいう「言い回し」は、文脈として成立していても、「論理」として破産していると蛙は考えるのである。
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蛙は中央の方針に反対をしているわけではない。
ただ、これまでの言い方をみるに余りに不十分に過ぎると思ってるのだ。
指導的な人々から、「事業は手段、解放が目的」ということが何度も言われてきた、
「提言」ではこの点について、④手段(事業)と目的(解放)の本末転倒、という項目立てで触れている。
いわく「『答申』『特措法』から始まった同和対策事業は、あくまで部落問題を解決する一つの手段であった。目的は部落の完全解放にあったはずである。」
ということで、「事業の意義の徹底と完全解放に向けての自覚を促す指導と学習が」「おろそかにされたため」様々な問題を引き起こす原因となったという評価になる。
完全解放に至る道筋で、とるべき手段として様々な方策があろうが、同対事業はその内の一つだというのだけれど、そうなんだろうか。
30年ばかり前の話になるから恐縮だが、新しい住宅が建てられ、それまで一日陽も差さぬ長屋暮らしだったおばぁさんが入居された時のこと。
こんな御殿みたいなところに住まわさせてもらって、有難いことや。朝な夕なに神戸市役所の方に手ぇあわせて拝んでるんや。
てな話を聞いた。
蛙は、全国の仲間が運動をしての結果やから、なーも役所、拝むことないんやでぇ、てなことを言ってたように思う。
言いたいことがうまく文章にならないけれど、「事業」によってそれなりの「幸せ」が得られる人があったとしたら、それはそれでいいのだと思う。
明治以来、一貫してネグレクトされてきた「行政責任」がわずかばかり回復されただけのこと。
それだから、「完全解放に至る手段」などという位置づけでなしに、単に「行政が為すべきこと」を為さしめただけの「部落解放に向けて」の条件整備ということに過ぎなかった、それ以上でもそれ以下でもないという風に考えるべきだと、蛙は思うのだ。
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12月12日に同盟中央に対して「部落解放運動に対する提言委員会」(上田正昭座長)から出された「提言」というのがある。
ロジャーさんと出会った「飲み会」の帰り道、Ho氏から感想を求められて「百点満点だね」って答えた。
蛙は皮肉ってゆうたわけだが、真意が通じたかどうか。
「提言委員会」の構成メンバーを見れば、こんな具合になるのは知れたこと。
「運動の健全化」を目指して苦言を呈する形になっているけれど、内容的には、中央本部がここ数年繰り返してゆうてきた「主張」というか「運動方針」というか、それらを徹底させるべきってな話になってる。
蛙に言わせれば、委員会の学者先生たちもまた、「部落差別問題の解決」に責任の一端を負うはずだろうが、君らは一体何をしてきたというのか?
発言は主体的であるべきだろう。
傍観者みたいな「もの言い」はやめてもらいたい。
「提言」は「毒にも薬にもならない」ような代物で、それだから「百点満点」って言ったわけだわ。
「中央本部運動方針支持」ということだからね。
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ひねくれものの蛙であるからして、新年などと言ったところで人間が勝手にゆうておるだけのことであるから、「おめでたい」だの「およろこび」だの関係ないがなって思っておったりする。
年賀状などというのも40年以上書いたことがない。
それだから、ホントに仲のよい友人って少数に限られる。
「義理のおつきあい」ってのも大事にしていくのが、活動家・運動家の必要条件なんだろうから、そういうのにあまり向いていないんだね。
なわけで、いつまでたっても「独言」ってことになる。
でもやっぱりどっかで「多くの人と仲良くなりたい」とは思ってるんだろう。
「ひとごと」みたいな言い方だけど...
ぜんぜん「ご挨拶」になってないね。
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友達の友達は皆友達ということで、昨日の一杯飲み会では、アメリカで反差別の運動にかかわっておられるロジャーさんと初めて出逢う機会があった。
彼がキューバについて少し話されたんで、蛙の質問は、全体の流れとは無関係になってしまたけれど、そこんところに集中してしまった。
彼は二度、キューバに行ったということだった。
たまたまこの時、H君に貸し出す約束していた「キューバ革命」に関する本を持っていっていたんだ。
1, カストロの入城
マリ・エレーヌ・カミュ、徳間書店、1965年初版
2, 革命の中の革命
レジス ドブレ
3, 国境を越える革命
チェ ゲバラ
蛙はもっとたくさんキューバに関する本を持ってた筈だけど、行方不明なのが多い。
ロジャーさんは、3.は読んでるって言ってた。
2,のレジス ドブレについては、この男こそCIAにチェを売ったんだみたいなこと、言ってた。
ボリビアでの話になるけれど、ドブレの為した行為が意図的なものであったかどうかは意見はわかれる。
蛙はドブレの善意は信じてよいと思うが、結果としてチェの死に大きな責任はあるということには異議はない。
いづれにしろ、済んでしまったことからは、「学ぶべきこと」はあるにしても「責任の追及」などということは蛙には無縁のこと。
ロジャーさんとは、「キューバで会いたいね」てなことで、ハグしてお別れをした。
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最近、どっかで「真理は一つ」ってな文章にお目にかかったのだけど、これはとても「危険な思想」だと蛙は思う。
マルクス主義をよく理解している人なら「真理は全て相対的であるということだけがただ一つ絶対的な<真理>なのだ」ということを知っている。
既に過去となった「事実」は一つであるということは言える。
ガリレオは男でマリーキュリーは女だったというような意味ではそうだ。
けれども「現在」から「未来」にむかって、Aという人間が「男」であるかどうかは確定しているわけではない。
例えば「狭山事件」で石川さんが犯人ではないということは「事実」。
それでも何故この「裁判」で石川さんの無実が明らかにされないのか。
「羅生門」という題で映画化された芥川の「藪の中」では、たった一つの「事実」も、それと関わる人毎に「違った捉え方」がされるという話が出てくる。
「事実は一つ」であっても、それと関わる主体によって「真理」としていかようにも解釈されうる。
私たちは石川さんの無罪を明々白々のものとして確信しているけれども、「国家権力を擁護する側」の人々には「たった一人のために司法制度の根幹を揺るがし、その信頼を崩すことなどできはしない」ということになるのだ。
「真理は相対的なもの」ということをしっかり考えておかないと、危うい「原理主義」の陥穽へ落ち込むことはある。
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