「差別事件」を考える 11

このシリーズの初めに
ーーーー
「部落差別事件」という場合、蛙の考えによれば、はっきりと区別されるべき「二つのパターン」があると思われるのだけれど、解放同盟では、そこのところは考えられていないのではなかろうか。
「差別者側」に立っていえば「意図的か否か」という点だね。
ーーーー
と、書いたのだけれど、この点について、もちょっと、言っておこうと思う。

部落解放同盟の組織として「女性部」というのがある。
以前、それは「婦人部」という名称だった。
「部落解放全国婦人集会」という呼び方も「全国女性集会」という風に改められた。
この話に蛙は詳しくはないのだけれど、多分、「ウーマンリブ」運動の影響も強くあったのではないかと考えている。
この「婦」という「文字」だけど、「おんな」に「ほうき」ということだから、「男支配文化」の象徴的表現であって、「差別に対抗する組織」として「相応しいものではない」ということだったようだ。
それだから、蛙がウチのwifeを「嫁さん」などと言おうものなら、「あんたぁ、何考えてんねんッ!」ちゅう反応があったわけだね。
「嫁」って「おんな」に「いえ」やもんなぁ。
ほいじゃから、蛙は「今からカタカナで言うけど、ウチのヨメさんはな・・・」ってな言い方、してたんだな。

「何の話、してるねん」ってことだけど、「言葉」或いは「言語」というものが、そもそも「差別社会を前提として成立」をしていて、自覚的に「言葉・言語」と対決する姿勢を保持していなければ、常に「差別者側」に転落していくことになるってことだ。

それはそうだと思うけど、例えば「ある人」が「後妻」とか「後添え」とかという「言葉」を使ったとして、それは「差別事件」として「糾弾」の対象になるだろうか?
また、よくあるパターンだけど、自分たちの置かれている状況の厳しさを嘆いて、「わしら、エタ・ヒニンみたいやわなぁ」等と表現する場合がある。
これも「糾弾」の対象になるだろうか?

蛙は、「対象にはならない」と思う。

これらのことは、「言葉というものが現実の差別社会を肯定していく、そういう性質を持っている」のだということを、
また、その「言葉」が持つ「歴史性」と「全体性」について、「発言当事者」に対して、しっかりとした理解を求めていく、そういう「作業」になるのだと思う。

「糾弾」の「意味」を広く理解して、「蛙が言うようなことを含めて」って考えもあるかも知れない。

「意図的」で「攻撃的」な「差別事象」に対するとき、蛙の内側には激しい怒りがある。
勿論、それでも最大限な「冷静さ」は要求されるだろうが...
蛙は「糾弾闘争」というのは、この「激しい怒り」、「決して許しはしないという想い」、「一刻の猶予もならない」、そのような「条件」にあたるものに限定されるべきだと考えているのだね。

「意図的か否か」という話は、蛙には「重大な違い」だと思われるし、その後の対応も自ずから「違った方策」が検討されるべきだと、つくづく思うのだね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「差別事件」を考える 10

多分、蛙はとんでもない馬鹿なんかも知れない。
「差別事件」に対しては「徹底糾弾」の姿勢は貫かれるべきなんだとは思うけれど、この世の中、厳しい「差別社会」なんだと思っていて、それだから「差別事件」なんかゴロゴロ転がっていて、ほいで「モグラ叩き」みたぁになってしまうから、一々の「こと」について、「糾弾闘争」なんて組んでられないんでないかなんて思うのだね。
「これは取り組む値打ちがある」という「もの」に限ってってことでいいんでないかって思う。
その「値打ち」の基準だけど、一つには「差別にさらされた個人、或いはグループ」が明らかな場合、「潰されないように支える」、これが肝要だと思う。
このケースだと「差別攻撃」を行った「実行犯」を「割り出す」ことも重要になる。

そうでないケース、例えば「2チャンネル」に溢れかえっている「差別言辞」などが典型だし、それと、特に「被害者」が特定されないような「差別落書き」などもそうだが、「放置してよい」ということでないにしても、これらは「実行者」が「おのれの馬鹿さ加減」を自己暴露してるんであって、「社会に対して」そういう風に理解を求めていく程度でよいと思うし、その「こと」にあまり大きなエネルギーをとられるようなことまではしなくてえぇんではなかろうか。

最近の事例で「不特定多数」に対する「差別事件」で「重大だな」と思うのは「戸籍謄本等不正請求事件」だけど、この概要は「戸籍等・・・」で検索してもらえれば分かるはずだ。
都連のページから部分をコピペしておくと
===
・・・差別を目的とした身元調査のために、弁護士・行政書士・司法書士・社会保険労務士等法律で特別に他人の戸籍謄本の取得を認められた職種の人々が、差別身元調査のために戸籍謄本を不正入手するケースが、かなり広汎に存在することが明らかになりつつあります。事実だとすれば、「法によって特権を認められた人々」が、その「特権を利用して差別を商売にする」事実が広汎に存在することになり、極めて重大な問題です。・・・
===

この「事件」の「全容」はまだ「解明途中」なんだけど、「差別で銭儲け」って話であることは明らかで、許し難いことだ。
ほいでもって「事件」の「調査中」、今尚、「地名総鑑」が「生き続けている」ことも分かっている。
「不特定多数」と言ったけど、これが実際に「役立っていく場面」を想像すれば、明らかに「特定の個人」の「結婚・就職差別」ということになる。
「不正」に取得された「戸籍等」で「部落出身でない」と「分かった」として、それで「結婚」なり「就職」なりが「滞りなく」ということであったとして、実際、そんな方が多数だろうけど、それが「差別事件」でないかってゆえば、そんなこたぁない。
こういう行為・過程全体が「部落差別」そのものなんだね。
勿論、帰化された「在日外国人」も「出自」は明らかになるのだから、「部落差別」限定って話でもない。

昨年には「法制度」が一定改善をされて、少しは「歯止め」もかかるかと思われるが、万全ではない。

これはもう、「差別全般を無くしていく」そういう運動の「ひろがり」に期待を繋ぐほかないということだろうし、何よりも「被差別当事者」が「もっと強くなること」、そして、「被差別当事者」からもだけど、「同盟」が「ムラ」の中で「頼りになる」組織なんだっていうような「信頼される力量」をしっかり作っていくって以外に、蛙は「途」を考えることができないなぁ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「差別事件」を考える 9

都はるみさんは「ひとりで生きてくなんてできないわ♪」なんて唄ってたけど、大体、同性であれ異性であれ「あんたと一緒にいれたら気分がいい」てな程度で「結婚」ってものがあるんだろうと思うね。
「親」やら「国」やらに「ああだこうだ」と指図されることは無いはずなんだ。
けど、「若い人」には、それが大層難しい。
「法制度」「社会的な権利」というようなところで、外国では「事実婚」とか「婚外子」とかが「何の不利益も蒙ることが無い」事例があるようだが、「この国」では、とんでもなく厳しい状況にさらされることになってしまう。
ある程度な「妥協」も選択せざるを得ないのだろう。

「親」の方は「わが子が幸せに暮らしていけるように」という想いを持つのは自然だ。
「世の中には理不尽ではあるけれど、実際、『差別』はあるんであるから、そんな『苦労』をみすみす引き受けていかなくても...」というのが、「結婚差別」を生み出す「動機」なんだろうね。
「出身の側」は、その「理不尽な差別」から「逃げる」ことができないが、この「場合」、「差別者側」もまた「自らの人間性を打ち砕く」ことに結果する。

事実がもっと広汎に知られていかなければならない。

「出身者」と「でない人」との「結婚」は今では一般的になってきているし、「素敵な家族」はたくさんあるんだ。

今は大きく時代が変わってきていて、「差別問題」以前のこと、誰も彼も「結婚できない賃金」とか「不安定な就労状況」とか、社会全体がとんでもないことになってきている。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

「差別事件」を考える 8

憲法

第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

「常識」というものは大層胡散臭いものだけど、この「条文」については大方の人々が「常識の範囲内」として了解しているのではなかろうか。
ここには「旧憲法・旧時代の『家制度』」の「否定」、「女性差別の否定」という意味が込められているのだろう。

前に帚木蓬生さんの「インターセックス」って本の紹介をしたことがあったけど、「セクシャルマイノリティ」の側からすれば、納得のいかない「条文」だろうね。

「24条」はターゲットを「家制度否定」においたものなんだろうけど、それはそれとして「現実」はどうかといえば、大方の人々はその「家制度」に囚われたままの発想を持っているんでなかろうか。
「結婚式場」では「○○家」「△△家」という「表記」が一般的で、何の疑問も持たれないまま「式典」は進行していく。
「流れ」は「新郎」を中心に、という風なんだね。
「結婚の儀式」は「男支配」を肯定する「差別的な儀式」である場合が多い。
勿論、「そうでない」ケースもたくさんあるだろうけれど。

「家制度に囚われたまま」ということであれば、明らかに「部落差別」は登場する。
「意識調査」で5人に一人、「同和地区の人との結婚には反対する」と回答する「この人たち」は、「憲法違反」の行為を行っているなんて思いもしないだろう。

「同和教育に熱心に取り組んできた教師」などでも、「わが子」のことになると、「出身の人との結婚は許さない」って反対した「結婚差別事件」だってたくさんあった。

蛙は思う。
「さぁ、結婚しましょう」ってことを考える、その二人が「あまりにひ弱過ぎる」から、「引き裂かれてしまう」んではなかろうか。
そんな「ひ弱な人間」を作り出している「学校教育」「社会教育」の責任は重い。
こんなところで、「自死」を選んだ「出身者」は限りなく多い。
「部落差別」は恐ろしい。

「君ら、もっと強くなってくれッ!」って蛙は泣きながら叫ぶんだ。祈るんだ。
「きっと『支え』になるからッ!」蛙んとこ、おいでよッ!

「同盟」に「存在意義」があるとしたら、そんな若い子たちを「支えること」しかないだろう。

| | Comments (1) | TrackBack (2)

「差別事件」を考える 7

あたしらは大概「姓名」というものを持っている。
「そのこと」に疑問を持つ人はまずいないのではなかろうか。
ここいらへんから「疑ってかかる」ってのが、蛙の「奇人・変人ぶり」なんだろうね。
多分。

ずっと昔、大方の人には「姓」は無かったと思う。
「明治」という時代になって、支配の側から、「近代的国家」としての「出発」という問題意識の中で様々な「制度改革」がなされたが、特に重大な意味を振られたのが「戸籍制度」だったと思う。
もともと「日本国」でなかった「琉球」や「アイヌモシリ」の人々も「和人風」な「姓名」を強制されたのだけれど、この「戸籍制度」の「狙い」は「全ての人間の国家管理」ということだったのだね。
これはすぐさま「徴税」「徴兵」に結び付けられていく。

蛙は、勿論、自分の親が「我が子の行く末」に愛情と祈りを込めて「名付け」してくれたことを「大切に思う」気持ちを否定しようとは思わないけれど、「人」は「成人」すれば「自分で自分の名前を決める」という風にすればいいという主義なのだね。
これは「国家に対する反逆行為」。
それだから「本名」よりも「田所蛙治」って名前の方が余程気に入っているんだ。

「結婚」という「制度」もまた蛙の気に入らないものの一つ。

「じゃ、なんであんたは結婚したん?」って「突っ込み」、入りそうだけど、それが自分でもよく分からないんだ。
一つには「生き物としての性的欲求に支配されて」ってこともあったんだろうけど、大きくは「打算」だったと思う。
当時、「部落解放運動って何なんだろう?」ということを自身に問うような時期だったんだけど、「そのためにはムラの中で、『人との繋がり』というものを大事にしていかなければ前には行けないのではなかろうか。いつまでも『独身』を通して行くのでなく『キチンと所帯を持って生活していく』そういうことが基本でなければならないのではなかろうか」などと考えていたりしたのだ。
今にして思えば「何て馬鹿げたことを考えていたんだろう」と空恐ろしい気分になるけれど...

ツレアイには済まないことをしたと思っている。

「結婚差別」について話そうと思ったのに、「前振り」が長すぎたね。
また、引き続き「書いていこう」と思うけれど、蛙の考え方は「結婚という制度」自体が「国家管理に身を委ねる行為」だと思ってるから、これはもう「同盟」の「考え方」とはまるっきり違ってる。

次回に続けるということで、何点か「問題点」を列記しておこう。

第1には、多くの「一般地区」の人々に対する意識調査で「同和地区の人との結婚について」尋ねられた解答は、おおよそ5人に一人の割合で「反対する」ということになっていること。
これは長い期間、変わっていない。
第2には、当の「同和地区住民」の側が「最も解決困難な課題が結婚差別だ」と考えているという事実。

実に情けない話だね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「差別事件」を考える 6

「就職差別」について書いてたら、延々と続きそうなんで、一区切りつけておこうかなぁ。

これまでの「闘い」の成果として、「統一応募用紙」ってのを作ってきたということがある。
「求職」にあたって、「求人側」から「履歴書」の提出を求められる際、「本籍」とか「親の職業」や「資産状況」などなど、そのほか「本人の責任に関わらない事項」を尋ねられたりすることがあったのだけれど、「そりゃ、差別採用ってことになるがな」ちゅうので「考え抜かれた書式」なんだね。
これが、最近「使われないケース」って、増えてきたと言われている。
同盟では「厚労省」に対して「指導の徹底」を要求しているようだ。

ほいで、次の話だけど、前に「読者」から質問のあった「能力さえあれば」というのを少し書いておこう。
蛙は一応、中退しちゃったんだけど、「国立大」には行ったんだ。
その辺の事情は、書きかけの「蛙の青春」を再開する時にするけど、「その時代」、46年前か、「大学に行く」なんてのはメッチャ少なかったんだね。
解放運動の前進で「奨学金」を軸に「進学率」を上げていく取り組みが、かなりな程度、進んだ。
ここで「それなりな力」を手にする「部落」の青年たちを作り出してきたのだけれど、その多くは「地区外流出」ということになる。
とても素敵な若い子たちだったんだけど、彼らを「運動に繋ぎ止める」、そういう魅力を「部落解放運動」は持つことができなかった。

それは「そのようなもの」として「受けとめざるを得ない」事実だったんだ。

この点については、も少し、話さなければならないことがある。
「考える」シリーズを書きながら、また「別な」ことも考えていた。
それは「大きく時代は変わったのではないか。部落差別を考える際、この時代変化との関係を考えてみなければ...」とゆうようなこと。

まッ、とりあえず、次回からは「結婚差別」について、蛙の「考え方」をUPしていこうかなって考えている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「差別事件」を考える 5

前稿にコメントがついてたんで、ちょっとひと言。

>1.現場とは職場つまり就職先を指しているのか、
>製造現場と言われるような意味合いでしょうか。
>2.「ミソ」を早く読みたいと思います。
>お忙しいとは思いますがお願いいたします。

1.については「就職先」ということですね。
2.の「ミソ」って話は、暫くお待ちください。

で、「就職差別」だけど、蛙は「劇的に改善されてきた」と考えているのは、この「30年間」の取り組みの成果として、「公式には『部落』とか『在日』とかを理由に不採用とすることはできない」という「不文律」を勝ち取ってきたと思うから。
「それ以前」は「堂々と」罷り通っていたんだね。
「郵政・就職差別事件」の折などには「ウチはお客様のお金を扱うのですから、それなりな身許を考慮させて貰っています」などという台詞が実際に吐かれたりしてたんだ。
あの時は、メッチャ、頭、きたんだね。

さて現状はどうか、ということだけど、まさかそんなことを言う馬鹿は居なくなったとは思う。
ただ、「部落」に対する(「在日」もそうだろうけど)漠然とした「怖れ」「不安」は多くの人が持っていて、「訳も無く」「忌避・排除」ということになるから、特に「中小・零細企業」の場合、極端に「不採用」の事例が多くなるように感じている。
蛙が取り組んできた具体的な「事例」は面談では話せるけれども、ネットってなところでは「個人情報」に関わるので、たいそう難しいことになる。

蛙の「取り組み」の「姿勢」だけれども、これは「解放同盟」の「闘い方」からすれば「ルール違反」になるのかも知れない。
蛙が一番大事に考えるのは「就職差別」を受けた「当事者」。
まず最初に、「部落差別の現況」と「全国の同胞の闘い」について理解を求めるところから始めて、「大々的な糾弾闘争」を選択するか、それとも「当事者にとって最低限な条件闘争にするか」、「それは君が決めること」てな話をやるんだね。
まぁ、こんな文章では、「その場の雰囲気」、うまく伝わらない気がするけど、そんなところだ。
「裁判闘争ってことにすれば絶対、君が勝つけど、それには随分な時間とエネルギーが必要になる」なんて蛙が言うもんだから、大概、一番「低いレベル」な方法になっちまう。

蛙は「それでいい」と思う。
「当事者」が「高い自尊感情」を持つこと、「不採用」になった「会社」には行けないが、それなりな「進路保障」が勝ち取られること、そんなことが目指される。

蛙の場合、なによりも「厚労省・県労働局・ハローワーク」の「担当者」との「信頼関係」を「個人的に」作ることを大切にしてきた。
それだから、当の「就職差別被害者」に対する最大限な「支援」を保障させてきた。
また、当の「就職差別企業」に対する「指導」も、「彼らなりに」努力はさせてきた。大概、「ほんなら、もう、これからは、職安通じての求人は見合わせますわ」てな具合に「逃げられてしまう」んだけど。

蛙は思う。
「具体的」な「この就職差別事件」で「国」や「地方自治体」を対象に「責任追及」や「善処方」を求めていくなんて「闘い方」にどんな意味があるんだろう。
「求められている」のは「この個人の生活の保障」なんだから、「かっこつけて」の闘い方なんて意味ないんじゃない?
実際、「国」や「自治体」がでけることって何なん?
そんなもん、大したことあらへんがなッ!

ここまでゆうたら、大方の同盟のメンバーからは総スカンッちゅうことになるんじゃろうけどね。


| | Comments (0) | TrackBack (2)

「差別事件」を考える 4

「就職差別事件」だけど、確かに30年乃至40年前からすれば「劇的に」前進してこれたと蛙は考えている。
当時、公務員といえば「清掃現場」くらいなもので、それも「賃金」面でも「労働環境」でも、最悪な状況だった。
今では相当程度、改善をされてきたが、それも「同対審答申・特措法」を「武器として利用する」ことによって、「都市清掃」などの「労働組合運動」が勝ち取ってきた「成果」ということになる。
極言すれば、これも「似非同和」。
何故かならば、その「武器」は、自分たちの待遇改善には役立ったけれど、「視座」として「部落解放の展望」といささかも重なるものとしては「利用」されなかったのだから。
此の時、「在日」にとっても厳しい「就職差別」の壁が立ち塞がっていた。

そして、「時代」は「高度成長期」。
「資本」にとって「人」は「宝」だった。
「部落」であれ「在日」であれ、「有能な人材」を失うことは「敗北」を意味する。
勿論、同盟や「解放教育派」と呼ばれた「教師たち」の努力もあったし、「市民運動」として闘われた「在日韓国・朝鮮人に対する就職差別糾弾」の貴重な経験もあったのだけれど、蛙に言わせれば「資本の側」の「それ」をさえ「飲み込んでいく貪欲さ」が事態を規定したということだ。

実際、当時は「一般公務員」や「銀行員」、TOYOTAやSONY、松下電器などといった「超一流」企業の「正社員」になれるなど、「夢のまた夢」という時代だった。

今では「能力さえあれば」それは可能だし、実際、「部落」も「在日」も、多くの人々が、そのような「現場」に就いている。
ただ、この「能力さえあれば」というところが「ミソ」なんであるが、これは改めて「別稿」で論じよう。

それでは、一般的な「就職差別事件」は消滅したと言えるか。
実は、そんなことは無いのだね。
(つづく)

| | Comments (1) | TrackBack (0)

「差別事件」を考える 3

「地名総鑑」は「被差別部落出身者」を特定し、その「人間」を「忌避・排除」するためだけに利用される。
何ゆえ「忌避・排除」がなされなければならないかなどを説明することはない。
説明できるわけもないのは当然だ。
「差別事件」の実行者に問うてみても「皆がそうゆうてるから」くらいな回答しかかえってこない。
「被差別部落」の「実際」について「何も知らないまま」に巷間に流布する「偏見」に囚われての結果、それが「差別事件」となることが多い。

ところで、「地名総鑑」のようなものを「出版」したり、ネットで「流通」させたりすることは「犯罪」なのだろうか。
蛙などのような「被差別」の側からすれば「許し難い犯罪」ということになるけれど、「差別禁止法」などというものは無いのであるから、「そのこと自体」は「犯罪」として「取り締まる」ことも「責任追及」ということもできないのではなかろうか。
実際に「実害と被害者」が明らかになるようなケースでは「名誉毀損」「脅迫」などで「罪を問う」ことはできるが、一般的にはかなり難しいことになる。
警察の対応も「事件性」ということが第一義に置かれるようだ。

アナーキストである蛙は、「法律によって『国家』に裁いてもらう」ような発想はダイッ嫌いなんだけど、この際、「差別禁止法」は「必要悪」として求めざるを得ないなぁなんて思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「差別事件」を考える 2

次に書かなければならないのは、何てったって「部落地名総鑑事件」なんだって思ってた。
で、そりゃ「いつ」からだったかとか「何種」くらいだったかとか、同盟がどんな風に受けとめ、どんな風に闘ってきたかとか、色々調べたり考えたりしてる内にどんどん日にちが経っちゃった。
おおよそのことは頭に入っているつもりだったけれど、改めて「文書化」ということになりゃ「正確さ」は求められるもんね。

まッ、ほいじゃけど、「部落地名総鑑」で検索して貰えれば「東京都連」とか「友永さん」の記事が読めるから、そこんところは「そっち」に任せるとして、「その意味」を蛙がどんな風に考えているかということに限って書いておこうと思う。

ちょっと横道に逸れるけど、ギリシャ神話で「ミダス王の物語」ってのがある。
「王様の耳はロバの耳」って話でも有名だけど、「手に触れるものはなんでも黄金に変えてしまう」能力を手に入れた「不幸」は「人間」というものを考えるに示唆的な話だと蛙は思う。
デュオニソス神からの報酬としてミダスはそんな力を望んで手にしたのだけれど、最愛の娘さえ「黄金に変えてしまって」失うことなるんだね。
「お話」なんだから「なんちゅうことでもない」っていえばそうなんだけど、「人間の貨幣に対する欲望」がどんなものだかっていうことの象徴的な物語なんでないかなぁ。

「地名総鑑事件」って「金になるんだったら何だってやるよ」という話なんだね。
この時期、部落解放運動が最も元気だった頃のことだけど、その「流れ」があるからこそ成立した商売だ。
「御社の社員採用にあたって」とか「あなたの最愛のお子様のご結婚にあたって」とか、「同和地区出身者かどうか調べるには是非これをご利用ください」ってのが「売り文句」だったんだ。
「売り手」は「これが『時代の流れ』に棹差すことは十分承知の上でご紹介している」とさえ言っている。

こんなものに「手を出す」人間の根性は、蛙には想像がつかない。
「売り手」の方は「金になるんだったら何だってする」ってんだから、分からんでもない。
だけど、「買い手」の方は、こんな高い買い物を何故するんだろうかね。
「会社の人事担当」の場合、「ことなかれ」で「自分の腹が痛むわけじゃない」ってことか知らん。
「興信所・探偵社」なんかは「これで商売がでける」ってことなんだろうか。
いづれにしろ、「部落差別」がどれほど「広汎な人々」のなかに「生き続けている」のかということの証左ということではあるんだろう。
(つづく)

| | Comments (0) | TrackBack (2)

「差別と日本人」

角川oneテーマ21って新書版で、辛淑玉さんと野中広務さんの「対談」、6月10日付けの新しい本、題名が「差別と日本人」ってのが出たのだけど、早速買ってきて読み終えたところ。
辛さんの本は大概読んでいるけど、それだから彼女がどんなことを考え、どんな風に生き、闘ってきたか、ある程度のことは分かっているつもりだったけれど、野中さんとの対談から、彼女の「本音」というか、抱える苦悩の「重さ」が、ここには曝け出されているような気がして、ズドンと重い錘を受け取ったような気分だ。
野中さんは辛さんが部落差別について深く理解しておられることでビックリされたようだ。
そして、自身としては「しっかり頑張ってきたつもり」だった様々な仕事が、辛さんに指摘されて初めて「その不十分さ」に思い至り「恥じ入る」想いを持ったことが語られている。

部落差別とは「何であるか」という捉え方は、辛さんと蛙とは殆ど同一のように思う。
蛙は「他称語」という表現をしているが、彼女に言わせれば「差別者側の恣意」ということになる。

この本は「部落差別」或いは「この国の差別問題一般」を考える上で「必読文献」ということになると思われる。
是非、多くの人々に読まれることを願うものだ。
(724円+税)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「差別事件」を考える 1

「部落差別事件」という場合、蛙の考えによれば、はっきりと区別されるべき「二つのパターン」があると思われるのだけれど、解放同盟では、そこのところは考えられていないのではなかろうか。
「差別者側」に立っていえば「意図的か否か」という点だね。

「差別事件」への対応として、同盟の考え方は、まず、「事実確認」、「実行者の特定」、次いで、「その内容の及ぼす影響の評価」を行った後、当の「実行者」を「反差別の側に立たしめる教育的糾弾」と、併せて「その人」の所属する「集団」(会社とか地方行政体とか)の「指導責任の追及」ということになるようだ。
これは「差別糾弾要綱のとりまとめ」として「文書化」されるべきものとされている。

また、世の中がたいそう厳しい状況になってくると、「差別事件が多発する」という風にも言われる。
これについては「そうかも知れないなぁ」とは思う。
「そうかも知れない」けれど、蛙は、「世の中はもともと『差別社会』なんであるから、不断に事件は起こり得る」んだって思ってる。

この辺りのことを「具体的な事例」について、何本かに分けて「蛙の考え方」として書いておこうと思う。

今回は、例の「東京連続部落差別事件」について。
非常に長期にわたって、主要には都連の浦本君をターゲットに、彼以外の都連の人々をも含めながら、全国展開ということにもなった執拗で激烈な差別事件であったけれど、同盟に協力的な人々との連携で「実行犯」を割り出すことができ、「裁判」で「懲役2年」の刑が確定したケースだ。
「事件」の内容を知れば知るほど「攻撃の対象」となった側の深刻な「打撃」を思って、言葉さえ失うくらいなのだ。
「実行犯」は図書館などで「同和利権の真相」など、解放同盟を「批判」する本を読んだり、新聞などから「浦本」という名前とその仕事ぶりなどの情報に接して、「差別攻撃」を思い立つことになるが、本人自身、大学を卒業後も就職することもかなわず、極めて不安定な状況にあり、「自己実現」の場所さえないということであったようだ。
浦本君とその仲間は「彼」のご両親にも会っているようだが、実際、この「君」は「悪人」などでは決して無いのだね。
そういう意味では、蛙は「善人ほど怖いものは無い」と思う。
この「君」は刑務所から、都連の仲間に「謝罪文」を送っているように聞いている。
「刑」を終えて出所してくれば、きちんと「勉強」してくれて「反差別」の側に立ってくれるはずだ。

「部落差別」は実際の「部落」については一切知らないままに、「部落」に関して広汎に行き渡る「差別的で間違った情報」に踊らされてなされるものなのだ。
また実行者は大概「弱い人間」で、「他者を踏みつける」ことによってしか自身の存在を確かめる方法を持たないのだろう。

勿論、それだからと言って許される話ではない。
「差別される側」にとっては「生き死に」に係わる問題なのであるから…

| | Comments (0) | TrackBack (5)

「困ったこと」やね。

更新があまりできていないけど、「考えること・思うこと」があり過ぎてってこともある。
今日は「日曜」で、取り敢えず夕方までは「予定」が入っていない。
二点ばかり書きとめておこう。

一つ目は「北」の「核実験」だけど、もう、全く訳の分からない馬鹿げた話だね。
おかげで、「在日」の人たちからも激烈な非難が聞かれるし、この国の右派勢力からは「先制攻撃論」まで飛び出してきている。
困ったものだ。
「訳の分からぬ話」と言っても、我が国の「戦時体制下」を振り返ってみれば、「そっくり瓜二つ」ってとこだろうけれど。
「北」の為政者たちの考えは蛙には分からないけれど、一時代前の「冷戦構造」の折の「パワーバランス」政策に囚われたままってことなんだろうか。
「ミサイルと核」のブラフで政治的に何かを獲得できるとでも思ってるんだろうか。
国連を通じての「徹底的な制裁」などということも言われているが、そんなことで解決できるような話でもなさそうだ。
中国は「冷静な対応を」とゆうておるけれど、蛙も「そうあって欲しい」と思うけれど、この国の民衆の「乗せられやすさ」などを考えれば、「大きく右旋回」ってことにならないか、心配なところだね。

も一つの話だけど、集英社新書で出たばかりの「マルクスの逆襲」って本、なかなか面白かったので、是非ともって「お薦め」だ。(700円+税)
三田誠広(みたまさひろ)って芥川賞作家らしい。
これまで一度もこの人のを読んだことはなかった。
蛙より三つばかり歳下で所謂「団塊の世代」。
戦後から現在に至るまでの「この国」を概括するものだけど、蛙とは意見を異にするところもあるが、凡そ首肯できるように思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

時間があれば...

ほんとはあまり好きじゃない「世界」って雑誌、3号連続で買って読んでいるんだけど、まぁ、勉強になると言えば勉強にはなるんだ。
色々と知らない情報も手に入れることもできるし...
なんで「好きでないか」ってことだけど、「猫の首に鈴をつける」のは「誰か」、「どうやってか」という話が抜けてしまうんだね。
勿論、蛙にだって分かっているわけじゃないけど、ギリギリ、そういう設問を起てて「闘っていく」、そういう「姿勢」が見えないんだ。

例えば、「北」の「ミサイル」ってな話があった。
この国の支配者側からする「民衆の意識に対する悪辣な宣伝・誘導」はテレビや新聞などを動員して凄まじいものであったけれど、対抗する「偉力(ちから)」はあまりに弱い。
今回の「新型インフルエンザ」騒動でもそうだ。
「鳥インフルエンザ」と違って、これは「弱毒性」なんだし、蛙に言わせれば「みんな、早く『罹患』して、早いとこ『免疫』を獲得しとこうよッ!」ってことになる。
現在、糖尿病とか、何らかの理由で「免疫力」即ち「体力」ってことだけど、それが「落ちている人」の場合、「重篤」ってことになる「恐れ」があるから、「きっちり対応しなければ」なんていうけれど、そういう「人たち」は従来型の「インフルエンザ」だって、構造として「同じ話」じゃないか。
パンデミニックとか何とか、世界中が大騒ぎ。
これって、蛙には、「現在進行形」の「金融危機」について、世界大で、多くの人々が「真実」を見据え、「資本主義批判」に向かう「流れ」を押し留めようとする「謀略」としか見えないのだね。

時間があれば、そこいらを丁寧に検証する作業をしてみたいのだけれど...

| | Comments (0) | TrackBack (0)

さくらんぼ 桐の花

今年もさくらんぼがメッチャたくさんなった。
あちこちに配ったり、何人もの人に声をかけて「さくらんぼ狩り」に来てもらったり...
ひよどりが何羽も何羽も毎日やってきては「腹一杯」についばんでいくのだけれど、なかなか無くならない。

10年ばかり前、ツレアイのとおちゃんかぁちゃんがウチに来た折に、どっかの「道の駅」で買ってきてくれた「苗」なんだけど、なんて「種類」かはよく分からない。
粒は小さいんだが、なかなか甘いんだ。
彼岸の頃に花は「満開」だった。
背丈も3メーター近くになったかなぁ。

日曜日にはマナミちゃんとトッコちゃんが来てくれた。

ついでだからってことで、「桐の花」を見に行くことにした。

蛙の住んでいるムラの南側「川向こう」には県立の大きな公園があるのだけれど、1時間半ばかりの散策、大概な人は見落とすような「素敵な場所」を案内した。

この公園は南北に長い広大なものなのだけれど、南側に一つ、これが「正門」、東側には三つ、西側には二つの出入り口がある。
昔、蛙が子どもの頃、北側には「正式な出入り口」は無かった。
今にして思えば、それはあからさまな「部落差別」だったのだね。
北側の全面がムラとの境界になるからだし、なんと、そこには「フェンス」が敷かれていたんだから。
当たり前といえばなんだけど、「フェンス」は2箇所ばかり「破られて」いて、蛙の仲間の子どもたちは、こっから「自由」に出入りして遊んでいたものだ。

「同和対策事業」の時期、この辺りは「墓地整備」などを含めて色んな取り組みがなされたんだけど、蛙の父親も「担当役員」として関わっている。
父に聞いた話だと、「ムラ側」から公園への「出入り口」を作るのに、たいそう苦労したということだ。
この公園は「県立」であるからして、「対県交渉」だったのだけど、相手の担当が言うには「将来的には公園の入場の有料化ということもあるので『出入り口』の新設はできない」って!
おーいおいッ!馬鹿げたことをゆうなよッ!
はっきりゆうてみろよッ!
ムラの人間は「公園に入るべからず」ってことだろうがッ!

まッ、興奮は抑えるとして、父たちは敢然と立ち向かって、この「今ある北側出入り口」を認めさせたのだね。
おかげで、みんな大いに助かってるわけだわ。

桜も相当あるわけで、花見も大いに賑わう。

この時期は新緑が見事だ。

この公園に「桐の花」が咲いているのを知っている人は少ない。
フツー、人が立ち寄らないような場所に、まだ背丈も小さいのが、三本ばかりある。
「桐の花」はそんなに目立つような派手さはないし、植わっている場所が悪すぎて、目に留まらないのだね。
蛙は、このうす紫色の花がとても好きなんだけど。

他に「睡蓮」とか「薔薇園」とか「猫の森」とか「大方朽ちかけてるのに健気に生きてる大木」とか、いろんなものを見て、愉しい散策になったんだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「とことん!部落問題」

角岡伸彦君の新しい本、「とことん!部落問題」てのが4月に出たんで、早速買ってきて、今、読み終わったところ。
スタンスとしては、蛙の場合、たいへん近しいと思うのだけど、解放同盟の仲間からは、彼はどんな風に評価されているのだろうかね。

神戸の同盟は、そんなに力があるわけでなくて、例えば「狭山集会」への「動員」など、少数ということになる。
活発に活動されている「地域」などでは「貸し切りバス」を出したりしていてて、頭が下がるところだけど、実は「こんなこと」があった。
蛙はどんな場面でも「目一杯」な発言をする方だけど、ある時、この「地域」の「活動家」から、「お前は口先ばっかりで、『風呂屋の湯船』やないかッ!ウチは「狭山」でもこんだけ「人」出してるのに、神戸は何してんねんッ!」てな具合に非難されたんだね。
「酒席」でもあったんだけど、蛙も「切れてしまって」怒鳴りあいになってしまった。
恥ずかしい話だけど....

「頑張っている活動家」はその「苦労」の多い分だけ「他者への寛容性」を失う場面が多いのかも知れない。

「人」には、それぞれ「自分なり」の「生き方」「闘いかた」があるのだと蛙は思う。

角岡君など、「組織に参加せず、お気楽にやってるんでないか。ほんでもって『部落で、飯、食ってる』なんて許せん」てな評価があるのかも知れない。

この本では、蛙が知らないことをたくさん教えてもらったということがある。
とりわけ、「飛鳥会」と「小西」に絡む話は「勉強」になった。

だいたい、蛙は、「自分が見たこと知ったこと」以外には「何も信じない」ということだから、実に「活動範囲」が狭いんだね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

テレビ電話

新しく買ったパソコンは、デュアルコアだとかなんとかいって、「スペック」てものが高いんだそうだ。
なんとかセッティングもできて、webカメラなんかも仕入れて、息子ンとこと「テレビ電話」が開通した。
スカイプという無料のソフトを使うのだけれど、これは、メッチャ優れものだね。

ほいで、古いパソコンでもスカイプが使えるか、色々試してみたんだけど、「無料電話」としては使用可能だけど、CPUの力不足で、「テレビ電話」としては、とても使えたものじゃないってことが分かった。

こういう風に時代が変化していくのだとすれば、いづれ「固定電話」の時代が終わるのかも知れないね。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

最新式のパソコン、買った

蛙の場合、自宅の隣に「事務所」なんてのがあって、メチャ「変な」んだけど、その「事務所」のパソコン、最新鋭の機種に入れ替えたんだ。
なんでかっつうと、世の中、えらい進歩が激しいらしくて、ムスコの方から「おとっつあん、ちと『現代人』に追いついてちょうだい。『スカイプ』なんか使えるようにね」なんて言われたから。

これから「挑戦」なんだけど、なんでも「テレビ電話」が無料で使えるってことらしいんだ。
「ほんまかいな?」なんて思ってるんだけど、上手に使えるようになったら、報告しますね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「自分」が一番大事

蛙は一応「部落解放同盟」の一員なんだけど、この「組織」に過大な期待を持っていない。
ツレアイなどは「もう、やめたらどうなん?」なんて言ってる。
「勝負」は「私」のところにあるんだってことは、あたしら「夫婦」の基本的な考え方なんだね。
勿論、「自分独りさえよければいい」ってことではない。
しっかり考えることがでける人なら、「自分」って、我が身を取り巻く大勢の人々との「関係性」の「中」にしか在り得ないってことが分かるはずだ。

蛙の場合、「同盟」の「旗」を高く掲げているから、「困っている人」や「辛いところにいる人」が相談に来てくれているのだから、大いに「意義在る」ということはいえるだろう。
「みんなが幸せ」てなことにならなければ「あたしは幸せ」てなことにはならないんだね。
「部落」の場合、その「意味」について考えなければならない「独特」な「困難」がある。

蛙の考え方は、「同盟」のどの人々とも「違っている」。
多分、柴谷篤弘さんや池田清彦君の「構造主義生物学」、田中克彦さんの「言語学」から受けた影響が大きいのかも知れない。
自分では、この人たちの「考え方」から影響を受けたのか、もともと「蛙の思想」がそういうものだったのか、最近ではよく分からなくなってしまった。
まぁ、どっちゃでもいいんだけど。

とにかく、「同盟」の「対症療法」的な「方針」については「是々非々」ってことだけど、根本的な「思想」というところで「大きな疑問」を持っているわけだわ。

大切にされなければならないのは、一人ひとりの「人間」、それが中心に据えられなければならないってことだね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

体力が無いのかなぁ

明日は64歳の誕生日なんだけど、この歳になればちょっとも嬉しいなんてことないよねぇ。
ほいでも、「小鼓」っていうおいしいお酒、買ってもらえたから、まぁ「誕生日・万歳ッ!」つうてゆうておこうかなぁ。

「最近、ブログ、更新されておりませんねぇ」なんて言われたりしちゃったけど、別に具合が悪いわけでもなかった。
雑用でバタバタしてたくらいで、特にいい「仕事」がでけてたってことでもない。
つくづく思うのは「体力が無いなぁ」ってこと。
じきに疲れてしまうんだわ。

雑用も「片付けなきゃなんない」ってのがまだまだある。
ほいでも、昨日は全然フリーだったから、「奈良」まで行って来た。
阪神電車が「三宮」から「奈良」まで直通ってことになったから、「行きよい」んかって思ったんだけど、やっぱり「奈良」はとおいなぁなんて思った。

奈良では、友人の一人に加えていただいてる吉田智也さんがいて、「障碍者問題」などを中心に全般的な「民主主義運動」で頑張っておられるわけだけど、以前から、「自由学校・ポポロ」って取り組みの「お誘い」を頂いていた。
たいへん意欲的な「プログラム」が組まれていて、是非とも参加していきたいと思ってたんだけど、「毎月第三日曜」の企画ってことで、大概、日曜日といえば、蛙も忙しいことが多い。
昨日は珍しく「なーも予定の無い日」だったもんで、「ポポロ」第4回講座に参加してきたわけ。

因縁というものかねぇ。
この日の「ゲストスピーカー」は部落解放同盟奈良県連委員長の川口さんだった。
川口さんがお話されるからってんで行ったわけじゃない。

まぁ、とても「いいお話」を聞かせていただいたと思ってる。
同盟の「公式の会議」なんてのは、ざっくばらんな話になんないわけで、こんな風な「膝突き合わせて」の「談論」って、とても有意義だし愉しいものだ。

ご存知かどうか、奈良県の「同盟」は川口さん率いる「中央本部派」と山下さんの「支部連絡協議会」とに「分裂」していると言われている。
蛙は、はっきり言って、「ルールをまもってる」川口さんの側に与するものだけれど、「内容をよく知らない」のだから、とやかく言うことはできない。
兵庫の場合、一時期、「不埒な連中」に同盟の「中枢」を奪われて、そいつらとの「喧嘩」で蛙は「処分」を喰らったが、それだからと言って、「正しい県連運動」をめざして別途「組織」を建てようなどとは思わなかった。
よく分からぬままに言うのもなんだけど、若し川口さんの側に「否」があったとしても、「別に組織を立てる」選択をされた山下さんには同調できない。
必ず「踏みとどまって」自身の「想い」を「拡げていく」、そういうことを目指して欲しかったと思う。

いづれにしろ、蛙は「もう一度、統一がなされる」ことがあるはずだと思う。

それは、吉田智也さんや、奈良県下の「同盟」の友人たちの望みでもあるはずだね。

| | Comments (0) | TrackBack (2)

「納棺夫日記」読んだ 3

本屋をのぞいたら「新潮45」って雑誌に青木新門さんが寄稿していたんで「立ち読み」。
前稿のWiki記事にあった「おくりびと」という映画についての「事情」を説明しておられる。
特筆するような話はないけれど、青木さんはアメリカの「葬儀」の際の遺体処理にふれながら、「この映画は必ずアカデミー、取りますよ」って予言をされていたという。

葬祭儀礼は、それぞれの民族とその歴史、その文化に既定されてあったわけだけど、現在の「文化」が「生ー生きていること」一辺倒であって、「死」を「否定的なもの」或いは「敗北」としてしか扱われていないこと、「できるだけ<思考の外>においておこう」とするその態度を、青木さんは指摘されている。

「死生<生死>一如」、生きているから「死ぬ」のであり、「死」があるから「いのちの輝き」があるのだということ、これは本来「仏教」の基本的な立場。

青木さんは現在の「宗教」と「宗教家」について、大きな疑問を投げかけられている。

蛙は、この本を高く評価しているのだけれど、ただ、「宗教とは個人的な問題なのではないか。『部落差別』を考える場合、はずしてよいわけではないけれど、それが『社会的問題』であるのだから、論理の展開として、違った『視角』や『方法』は考慮されなければならないのではないか」など、思うのです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「納棺夫日記」読んだ。 2

この「本」が「おくりびと」って映画の原作なんだと思っていたんだけれど、Wiki記事によると、
×  ×  ×
本木雅弘が、1996年に青木新門・著『納棺夫日記』を読んで感銘を受け、青木新門宅を自ら訪れ、映画化の許可を得た。その後、脚本を青木に見せると、舞台・ロケ地が富山ではなく、山形になっていた事や物語の結末の相違、また本人の宗教観などが反映されていないことなどから当初は映画化を拒否される。
本木はその後、何度も青木宅を訪れたが、映画化は許されなかった。「やるなら、全く別の作品としてやってほしい」との青木の意向を受け、『おくりびと』というタイトルで、『納棺夫日記』とは全く別の作品として映画化。映画公開に先立って、小学館でさそうあきらにより漫画化されている。
×  ×  ×
ってことらしい。

岸田のおばちゃんなんかも、「これ、えぇでッ!絶対見ぃやッ!」なんて言うてたし、同盟の中でも信頼をおいてる友人たちも評価は悪くないようだから、「納棺夫日記」とは「別のもの」ということで、DVDでも借りて見ておこうかなぁ。

ところで、青木さんの言う「宗教観」だけれど、蛙にはよく理解ができたわけで、「こんなもの、<映画になるわけないじゃないッ!>なんて思ったから「見ずにおこう」と書いたんだ。

前稿でも書いたけど、青木さんの場合、「身体」とか「実践」を賭けてのアプローチなわけで、蛙は「理性」とか「脳ミソ」とかで「親鸞」に「立ち向かった」のだから、これはもう「向き」が正反対だったのだけれど、例えば「物理学の最前線」とか「分子生物学」「脳科学」の「現在」を「参照する」態度など、重なることも多い。

何にしても、是非、読んでいただきたい「本」ではある。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

「納棺夫日記」読んだ 1

「おくりびと」って映画が何か「賞」を貰ったらしく、えらい長いこと「ロングラン」らしい。
葬儀の折に、遺体を「納棺」する仕事があるが、直近だと蛙の母親の時に葬儀社から二人のおばさんが来て、そういう「作業」をしてくれた。「随分、手馴れたものだなぁ」などと感心しながら見入っていたものだ。
この「仕事」にたずさわってきた青木新門さんという方が、自身の「歩いてきた道程(みちのり)」をまとめられたのが「納棺夫日記」(文春文庫)だ。
これを「原作」として「おくりびと」が作られたようだ。
青木さんは結局、親鸞と出逢うことになる。
蛙も、親鸞と「歎異抄」、浄土真宗などについて、大概な分量の「本」を読んできているから、「納棺夫日記」に書かれていることで「知らないことは何も無い」のだけれど、そして「考えていること」は殆ど「近しい」想いはあるのだけれど、どうやら「向き」が「正反対」なんだなぁということは思った。
蛙の場合、新門さんと「同じ結論」に至るにしても、「理性」で、まぁ「大したこともない脳ミソ」で「そこ」へ行こうとして来たのだけれど、彼にあっては「身体」或いは「感性」のようなところでのアプローチだったようだ。
彼もまた、この「日記」を書いた後も「苦悩の日々」は続くに違いないだろうし、蛙もまた、「そこ」に至らんとして仕切れぬ、日々が続くのだろう。

久しぶりに「よい本」に出逢えたと思う。

ただ、この「本」は、浄土真宗について「しっかり考えてきたことがある」という人には「分かり易い」けれど、でない人からは「どんな風に読まれるのか」、蛙にはよく分からない。

この「本」を読んで、「おくりびと」って映画、見ないほうがいいかも知れないなどと思ったりもした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

3月26日

もうそろそろ3月も終わろうとしています。
サクラもちらほらというところですが、なんだかちっと寒すぎますね。

税金の話をしたついでだから、もちっと。

サラーリーマンの「還付請求」くらいなら、蛙は大概やっつけることができます。
相談は勿論、無料です。
色んな事例で、ちゃんと「申告」すれば税金が戻ってくるのに「面倒だから」ってことで「していない」人がたくさんいます。
ちょっと古い話になっちゃったけど、「阪神大震災」で「自宅」が「一部損壊・半壊・全壊」といった「罹災証明」というものが出ました。それで、その「損害」の程度に応じて「所得税還付」がされるということがあったわけ。
当時、蛙も知らなかったんで、「へぇー、そんな制度あるんやッ」てなことで、自身のことは勿論、周りの人たちにも「これ、使わなあかんでぇ」って、随分頑張ったことがありました。
「知らずじまい」に終わった人も多くあったのではないかって思います。
その時、色々調べてみたんだけど、「泥棒に入られた」ってなケースでも「税金が戻ってくる」ってなことがあるんだそうな。
実際にあった「ケース」で挑戦してみたんだけど、アウトだった。
これって「被害額が相当大きい」ものであることや、勿論、警察に「被害届け」が出されていることも条件になるし、肝心の「被害額」を「証明する資料」ってものが必要だっていうんだね。
そりゃそうだろうけれど、そういうことなら、これって「大金持ち」にしか「利用できない制度」ってことにならないだろうか。

「アッタマくるなぁ」なんて思ったことがあったわけ。
世の中、理不尽にでけておりますよ。マッタクッ!

| | Comments (0) | TrackBack (0)

3月25日

たまに水曜日に「休み」が入るんですね。
「土曜出勤二日分」の「代替措置」なんよ。
今日は、「同盟」のとか、個人的なこととか、細かい「仕事」を消化してって日です。
「定額給付金」24,000円の「申請書」なんてのも片付けておかなくちゃ。
この「制度」って「馬鹿げた話」なんだと思うけど、「税金の還付」ってくらいに受け止めておこうかなぁ。
ちなみに「確定申告」でも「50,660円」還付。
たくさんの人の「税申告」について「相談」を受け付けていく作業もこなしているんだけど、これが「なかなか難しい作業」なんだね。
思うに、この「国」の「税制」って、わざわざ「難解」に作られてる気がする。
支配の側からは「知らしむべからず依らしむべし」ってことなんだろう。
あんまり簡単にすれば「税理士」の仕事も無くなっちゃうだろうけど、この「国」の「税制」は、人々の「TaxPayer」としての自覚、「国政」への「批判的精神」を削ぐように「しつらえられて」いるようだね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

3月21日

「水平社宣言」(http://www.bll.gr.jp/siryositu/s-ta-suihei.html)の「切り出し」ですが、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。」というところから始まります。
何遍も言ってきたことですが、「水平社宣言」は「共産主義・キリスト教・仏教(とりわけ浄土真宗)」の三つの「思想的源流」のもとに宣せられたのですね。
それで、「共産党宣言」の結語「万国のプロレタリアートよ団結せよ」を受ける形で「書き始められている」のです。
けれども一般に「その意味」が正しく理解されているかどうか、蛙は随分疑問に思っています。
ただ「気分」のような受け止め方なんじゃないかしらん。
何故そう言うかということですが、「現在」の「危機」について、誰も「真実」を語っていない気がするからです。
少し以前に榊原英資さんの「間違いだらけの経済政策(日経プレミアシリーズ)」ってのを読んでいて「なかなか面白い」と思ったのですが、蛙が考えたことは「労働運動だって『一国主義』じゃやってられないんでねぇか」ってことでした。
既に何年も前から「資本の側」は「東アジア戦略」に乗り出していて、この「国」の「賃金水準」をぶっ壊していく、そういう行動を取っている。
対して「労働側」は「雇用の確保」みたぁなところで右往左往の「及び腰」。
それだからマルクスは「万国の労働者よ団結せよ」って言ったのですね。
蛙も「為替の秘密」を研究中で、今ひとつ「結論めいたところ」に至ってはいませんが、少なくとも、「アジアの労働者の共同行動」みたぁな「視点」を欠落していたことが、現在の「労働側」の困難の「根本原因」なのだということは指摘できるだろうと思います。
「低いところ」にあわせるのでなく、アジアの「賃金水準」を「この国」並みに引き上げていく、そういう「インターナショナリズム=国際主義」の「労働運動」でなければならなかった。
「今」は「アジア並み」の「賃金水準」へという「資本の側」の圧倒的攻勢に曝されている、そういう局面なのでしょう。

前稿の「世界・新しい経済学は可能か」という宇沢さん内橋さんの「連続対談」について引き続き考えていたことがあります。
蛙は「ベヴァリッジ」というのが分からなかった。
Wiki記事で調べてみたのですが、
×  ×  ×
ベヴァリッジ報告書(Beveridge Report)とは、ウィリアム・ベヴァリッジ(William Henry Beveridge)が示した社会保障制度拡充のための一連の報告。第二次世界大戦後のイギリスにおける社会保障制度の土台となった。
第二次世界大戦中の1941年、労働組合会議の請願を契機として省間委員会が組織され、国民健康保険制度などについての検討が行われた。その検討に基づいて1942年に示されたものがベヴァリッジ報告である。報告の中で、健康保険・失業保険・年金などを、あらゆる国民がその対象になるような統一制度のもとで整備することが示された。この報告は国民の関心を強く集め、第二次世界大戦後における福祉国家への期待を抱かせた。
第二次世界大戦末の選挙において労働党が大勝し、アトリー労働党政権が成立したことは、この構想を実現へと向かわせた。1946年に国民保険法、国民保険サーヴィス法などが制定され、いわゆる「ゆりかごから墓場まで」といわれるような福祉国家への道を歩んでいった。
クレメント・アトリー(Clement Richard Attlee, 1883年1月3日 - 1967年10月8日)は、イギリスの政治家である。首相(在任1945年 - 1951年)。 労働党党首(1935年 - 1955年)。同党出身の首相として初めて4年の任期をまっとうできただけでなく、任期中に議会で過半数の議席を得ることができた首相でもある。
「ゆりかごから墓場まで(ゆりかごからはかばまで)」は、イギリスの社会福祉政策のスローガン。原語では”from the cradle to the grave”。
×  ×  ×
というような話のようです。
この時目指された「福祉国家」の「理念」は、世界のトレンドになっているのだと思います。

けれども、この「施策」は「大きな政府=莫大な財政出動」てなことになるわけですから、その反動としてイギリスでは「サッチャー登場」ということになる。
×  ×  ×
マーガレット・ヒルダ・サッチャー(英語:Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC、旧姓:ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日 - )は、イギリスの政治家。
女性として初めて保守党党首および英国首相(在任:1979年 - 1990年)となった。保守的で強硬的な性格から、鉄の女(the Iron Lady)、アッティラ(Attila the Hun)などの異名をとる。
×  ×  ×
サッチャーにしろレーガンにしろ、「歴史の反動」として、というよりも「資本の側の渇望の体現者」と言った方が正確かも知れないけれど或る意味「必然」的であったと言えるかも知れない。
戦後、世界で一定、前進をした「労働側・民主主義運動の攻勢」をなんとしても押しとどめなければならないという意味で…

犯罪的なのは、それを「学問的に支えた」ミルトン・フリードマンやハイエクといった「経済学者」なのでしょう。
日本ではいささか小粒で「学者」という評価に値しないかも知れないけれど「竹中平蔵」ってことかなぁ。
てなわけで、お二人は「新しい経済学は可能か」という表題を選ばれている。

蛙に言わせれば、「経済学なんてみんなインチキなんでねぇか。『マルクス主義経済学』なんて『形容矛盾』だぜ。マルクスは思想家として天才的だったけれど、『マル経』の創始者なんて言われたくないはずだよ。彼が残したものは『経済学批判』だったんだから…」てなことになるよね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

3月18日

「一人ひとりの日常」って、とても重たいものだと思う。
ほんの少し「同盟」の仕事はこなしながらなんだけど、「会社の仕事」に振り回されていたり、とりわけ「人間関係」で苦労させられていたり、とても有意義な一日だったなんて言える状況にはないんだね。
ウンザリ。
ってことで、「更新」もなかなかで、疲ればっかり溜まるよ。

「世界・四月号」を読んでるんだけど、これもスピードが上がらない。
「新しい経済学は可能か」ってのが「新連載」。
蛙が尊敬をしておる宇沢弘文さんと内橋克人さんの「連続対談」なんだね。
これはとても「読み応え」があった。
宇沢さんは81歳、内橋さんが77歳ってことで、随分お歳なんであるけれど、お二人の情熱溢れる活躍には敬服というほかない。
こりゃ、引き続き5月号6月号も買わなきゃなんないなぁ。
この号は「特集・人を裁くとは?」ってことで、「裁判員制度」についても詳しく説明がなされてる。
最高裁が何ゆえこれ程までに力を入れてるのか、よく分かった。
こんなものは民主主義とは縁もゆかりも無い制度だね。
民衆を「国家」の側に「統合」せんがための「新たな装置」ということだ。
ここにきて、「司法官僚」とどう対決していくのか、それが問われてるんだし、同盟も「もちっと深く」考え直してもらいたいものだ。
あと、「バラクオバマ」の「困難」についても詳しく解説がされてる。

ほんとは「岩波文化人」って、蛙はあまり「好きく」ないけど、今回の号は勉強になったなぁって思うよ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

3月14日

この時期、「神戸学生青年センター」では「古本」の提供を受け付けていて、協力者から無償で収集した「本」を販売して得た利益を「留学生奨学資金」として活用していく作業を行なっています。
本日、蛙は娘の運転で「センター」を訪ね、無茶苦茶な数の量を置いてきました。
辛さんから「廃棄処分」を依頼されたものを含めて、数えていないので分からないけど、大概な分量です。
皆、それなりに「思い出深い」ものではありましたが、残しても読んでもらえそうに無いのを選んでってことです。

物理学・数学・生物学など自然科学の類い、経済学・哲学・言語学など、社会科学全般、こども向け本、英語原書などなど....

読んでもらえないかも知れないけれど、蛙の「存在そのもの」を形作ってきたと思われる「本」は手放すことができなかった。

世の中には「本」は溢れかえるほどあるけれど、詰まらないものの方が8割・9割を占めているし、よい本であってもその値打ちをキチンと読み取っていく能力もまた、問われるように思います。

「活字離れ」ということが言われて久しいけれど、「センター」に集められた「古本」が「顧客」の役に立ち、その「売り上げ」が留学生たちの「奨学金」として役立っていけば、蛙もまた、いささかの貢献ができたということになるのでしょうね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

3月12日

「シルレ ハムニダァ」。
今日、覚えた「朝鮮語」です。
「シルレ」てのは漢字で書けば「失礼」なのでしょう。
で、お互い、別れる際に「失礼いたします」っていう、そういう挨拶の言葉ですね。

今、ウチに帰ったとこなんだけど、今日は朝総連・東神戸支部の人たちとの交流会があったんですね。
「今後とも、差別に抗していくために協力して頑張っていきましょう」という話し合いでした。

蛙が思うに、仮に「部落差別問題」が解決する日があるとしたら、それは民族差別とか障害者差別とか、そのほかあらゆる差別問題が解消されるのと同日であるに違いない。
それだから、朝総連とか民団とか、「在日」の人々との連帯行動が、これまで左程重大なこととして取り組まれてこなかったことの方が不思議な気がします。
様々なことが、とりわけ「政治的な問題」があったのだろうと思います。
とりわけ犯罪的なのは日本共産党でしょう。
コウサミョンさんの自伝「生きることの意味・青春編」には、その辺の事情が赤裸々に綴られています。
日共は「在日」を利用するだけ利用して、肝心なところで「在日」を切り捨てていく、そういう破廉恥なことを為したのです。

蛙は言いました。
若し、朝鮮半島の「分断」ということがなければ、この「日本国」が「北」と「南」に別れて敵対する、ちょうど韓国と共和国がたどった運命を強いられた、そういうことだった筈だ。この「日本国」は朝鮮民族の犠牲の上に「安寧」を得たのだということを。
また、あの呪わしい同一民族の「殺し合い」が、この「日本国」では「朝鮮特需」などと言わているように、この「国」の「戦後復興」を支えたのであってみれば、「日本人」が何程のことを言う権利があるのか。

現在、アメリカとの戦争があったことさえ知らない「世代」になってきています。

年老いたものの責任として、朝鮮半島と日本の「不幸な歴史」の事実を是非とも若い人々に伝えておかなければならない。

今は、「北朝鮮バッシング」という形でマスコミは強力な世論誘導を行なっている。

対抗する私たちの力は弱いけれど、積み上げられていく「民衆の交流」だけが未来を切り開くに違いない、そういう「思い込み」で、お互いの力をあわせていかなければならない。

そう、思います。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

久しぶりの東京 2

たいへん厳しい状況におられる人も多い、そういう時代なんだろう。
蛙など御気楽な「寝言」をゆうてるけど、多分、大方から叱責の声がかかるんだろうね。
「ようゆうよッ!」って言われるだろうけれど、それでも敢て言えば「一番大切なことは『自分』のことが大好きってことだよ。」ってこと、思う。

「東京行き」からちょっと日も経ったけど、続きを。

3月4日付けの「みなみあめん坊」さんのブログは、「66回大会」に参加されておられたから注目してたんだけど、ストレスばかりで「なーもゆうことない」みたーな内容だった。
蛙の場合、1000人からの集会では緻密な論議なんて無理っていう意味で端ッから「大きな期待」を持っていなかったから、それなりな「勉強になる」とか「元気をいただけた」代議員発言を受けて「意義深い」ものだったと考えている。
昨日(3月8日)付けの「あめん坊ブログ」では、丁寧な「報告」があるし、「つづく」ってことになってるから、引き続き注目していきたい。

「正しい理論無くして未来を切り開くことはできない」ということも言われているのだから、既に立ち上げられている「中央理論委員会」の「情報」を知りたかったのだけれど、今のところ「論点整理」って段階であるようだ。
これまでも、蛙は「三つの命題」に批判的な論旨を展開してきたけれど、「どうなん?」って話は聞けなかった。どちらかと言えば「肯定的」な捉え方なんだろう。

他にも「裁判員制度」とか「学力テスト」に対する「同盟の態度」は「どうなん?」てな話もあったけれど、明確な態度表明は無かったように思う。
これについても蛙の「思うところ」ってこと、あるし、当分、この「シリーズ」続けようと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

«久しぶりの東京 1